ウェブ上のゾンビについて
2009年06月29日 / その他
最近、「ずっと仲良くしていた人がbotだった」とか「twitterで「本人認定」が始まる」といった記事を読んでいて、ふと、140字のつぶやきぐらいで簡単に人格を作り上げることができてしまうのであれば、今ある140字の連なりで作られた人格を「のっとる」ことも簡単にできちゃうんじゃないかしら、どうなのかしらそこらへん、なんて気になっています。
技術的なことはさっぱりわからないのだけど、なんだかそれができたらそれはウェブ上のゾンビ、ミュージシャンの「ロブ・ゾンビ」っぽく言えば「ウェブ・ゾンビ」、なんて言えたりするんじゃないのかしらどうかしら、とここ2か月ぐらい電車のなかでぼんやりしていたりすると、そんな考えが浮かんできます。
たとえば、です。
twitter上にある程度つぶやかれてはいるけど、放置されているアカウントがあったとします。
「のっとる」とはいえ、そのアカウントに書き込むことはパスワードを知らないとできないので、新規アカウントを取るとしましょう。わかりやすくするために、もともとのアカウントが「rhinoball」だとしたら、新規アカウントを「rhinoball_zombie」としてやりましょう。どうせなので「rhinoball」が使っているプロフィール写真をゾンビ色に加工して掲載してやりましょう。
あとは「rhinoball」の過去のつぶやきを見てクセを盗んで、適当につぶやいてやりましょう。
あら簡単! 「ウェブ・ゾンビ」のいっちょあがりです。
ただ、これだと自分で毎回毎回つぶやいてやらなきゃならないので、プログラミングのよくわかる人にアルゴリズムを組んでもらって「rhinoball」っぽいつぶやきを自動で、「rhinoball」っぽいタイミングで投稿してくれるbotをつくってもらいましょう。
手で入力して投稿するのをやめたら、ますますゾンビの意思を持たない感じが出てきて、いい具合になるでしょう。
そうしたらもう、もともと最近つぶやいていない「rhinoball」が「死者」にしか、「rhinoball_zombie」が「ゾンビ」にしか見えなくなるでしょう。特に「rhinoball」を知る人から見たら、「ゾゾゾゾンビが出たぞー!」と逃げ出してしまうぐらいかもしれませんし、ゾンビ映画の父ジョージ・A・ロメロが見たら「次の新作はtwitterでしゃかりき公開や!」と意気込んでくれるかもしれません。
ちなみにこれ、本当に死んでしまった人のアカウントをその人そっくりのbotがゾンビらしさなんて一切排して引き継ぐことができれば、「ウェブ上の形見」ということになりそうです。倫理上のあれこれはともかく。
それにしても「死者のSNS」的なものがあったりすると噂に聞くアメリカにこんなゾンビなサービスがあったりするのかどうか、気になるところです。個人的には、当然あっちじゃ盛んにおこなわれていて、筋肉モリモリで星条旗のズボンを履いたカウボーイに「ハアン? チミー、わかってる? ここ、ゾンビ原産国だぜ?」とか言われて馬鹿にされる、なんてことがあればいいと思っています。
技術的なことはさっぱりわからないのだけど、なんだかそれができたらそれはウェブ上のゾンビ、ミュージシャンの「ロブ・ゾンビ」っぽく言えば「ウェブ・ゾンビ」、なんて言えたりするんじゃないのかしらどうかしら、とここ2か月ぐらい電車のなかでぼんやりしていたりすると、そんな考えが浮かんできます。
たとえば、です。
twitter上にある程度つぶやかれてはいるけど、放置されているアカウントがあったとします。
「のっとる」とはいえ、そのアカウントに書き込むことはパスワードを知らないとできないので、新規アカウントを取るとしましょう。わかりやすくするために、もともとのアカウントが「rhinoball」だとしたら、新規アカウントを「rhinoball_zombie」としてやりましょう。どうせなので「rhinoball」が使っているプロフィール写真をゾンビ色に加工して掲載してやりましょう。
あとは「rhinoball」の過去のつぶやきを見てクセを盗んで、適当につぶやいてやりましょう。
あら簡単! 「ウェブ・ゾンビ」のいっちょあがりです。
ただ、これだと自分で毎回毎回つぶやいてやらなきゃならないので、プログラミングのよくわかる人にアルゴリズムを組んでもらって「rhinoball」っぽいつぶやきを自動で、「rhinoball」っぽいタイミングで投稿してくれるbotをつくってもらいましょう。
手で入力して投稿するのをやめたら、ますますゾンビの意思を持たない感じが出てきて、いい具合になるでしょう。
そうしたらもう、もともと最近つぶやいていない「rhinoball」が「死者」にしか、「rhinoball_zombie」が「ゾンビ」にしか見えなくなるでしょう。特に「rhinoball」を知る人から見たら、「ゾゾゾゾンビが出たぞー!」と逃げ出してしまうぐらいかもしれませんし、ゾンビ映画の父ジョージ・A・ロメロが見たら「次の新作はtwitterでしゃかりき公開や!」と意気込んでくれるかもしれません。
ちなみにこれ、本当に死んでしまった人のアカウントをその人そっくりのbotがゾンビらしさなんて一切排して引き継ぐことができれば、「ウェブ上の形見」ということになりそうです。倫理上のあれこれはともかく。
それにしても「死者のSNS」的なものがあったりすると噂に聞くアメリカにこんなゾンビなサービスがあったりするのかどうか、気になるところです。個人的には、当然あっちじゃ盛んにおこなわれていて、筋肉モリモリで星条旗のズボンを履いたカウボーイに「ハアン? チミー、わかってる? ここ、ゾンビ原産国だぜ?」とか言われて馬鹿にされる、なんてことがあればいいと思っています。
赤鬼よ、悲しみのタンゴを踊れ
2009年05月24日 / その他
先日、ふと『赤鬼と青鬼のタンゴ』のことが頭に浮かび、小さい頃好きな歌だったことを思い出してメロディラインをうろ覚えで口ずさんでいるとだんだんイライラしてきて正確なバージョンを無性に聞きたくなり悶々としかけたところで、「ああ、YouTubeでさがせばいいぢゃないか」と気づいて検索してみたところ、あっさり見つかりました。
尾藤イサオが歌っていたんですね。初めて知りました。いやしかし曲はやっぱりかっこいいし、キャラクターもかわいらしいです。
ところで、懐かしさ胸一杯でこれを見ていたら、おや、と思うところがありました。
なんだか、赤鬼と青鬼って、ゲイっぽい。
そんなふうに思ってしまったのです。
人間が眠りこけた頃に、赤鬼と青鬼の二人は繁みでゴソゴソと何をやっているのか。
タンゴです。
いやタンゴって、二人とも「男」に見えるけど、手をつないで見つめあったりしてこれは愛し合っているのではないのか。
そうかもしれません、でもよくわかりません。
まじめに考えると、不思議です。
そしてついつい赤鬼と青鬼の燃えたぎるようなラブストーリーを思い浮かべてしまったのですが、そうしたらふと『泣いた赤おに』のことを思い出しました。
多くの人がご存知かもしれませんが、物語はこんな具合です。
私は20年も前に幼稚園のときの学芸会でブルーのトレーナーを着てお面をかぶって青鬼を演じたことがありますが、いまこうやって物語を読んでみると、もう赤鬼と青鬼がゲイカップルのように見えてしかたないです。しっかり原作を読んでいないので作者の方の思惑とかはわかりませんが、どうも赤鬼と青鬼の悲恋を描いたように思えてしまうのです。
ちょっと直してみるとこんな感じでしょうか。
怪物扱いされるゲイの赤鬼。ヘテロな村人たちに受け入れられたい。けど、じぶんはゲイ。ただそれだけで受け入れてもらえない。赤鬼はなかなかそれに気づかない。
そこで青鬼が言う。「村人になにか「誠意」を見せないといけない。「暴れるもう一人のゲイ青鬼をブッ倒す」、それならいける。そうすれば、君は村人たちにとって自分たちを守ってくれる存在になれる。村人にゲイの赤鬼と仲よくする特別の理由を与えることができる」、と。
計画は成功して、赤鬼はヘテロな村人になじめるようになる。でも青鬼の姿がめっきり見えない。愚鈍な赤鬼はここでようやく気付く。「ゲイでおまけに凶暴な」青鬼を一生失ってしまったことに。
けっこう強引だけど、こんな具合。
でも、子供むけの話にゲイっぽい要素が紛れ込むというのは、よくあることな気がします。それは子供という存在が性が未分化な存在だから、だと思いますが、この辺に関してはたとえば、こちらのエントリ「『モンスターズ・インク』はどこまで「ピクサーヴォルト」か?」とそのリンク先が参考になります。
で、この『泣いた赤鬼』を勝手にゲイの話として読んだときにひとつ面白いなと思うのは、これが「愚鈍なゲイ」を描いていることです。ヘテロに溶け込むか、ゲイとしてこっそり生きるか、という究極の選択を迫られたとき、「なにかしらの特殊な能力」をうまく使えれば、その後の展開もハッピーに進みます。実際、上記のリンク先にもあるように、ピクサーの数々の映画にゲイの要素を読もうとすると、主人公の特殊な能力とハッピーエンドというのがセットになってくるように思えます。
でも何の能力もない「ただのゲイ」は、どちらかの選択をせざるをえません。赤鬼は村人に溶け込むことで「ヘテロに溶け込む」ことを選びました。すると「ゲイとして(青鬼と)こっそり生きる」道は断たれてしまうわけです。
でも、あたりまえのことですが、世の中には「ただのゲイ」のほうが多いはず。
そう考えると、よくある「ゲイって感性が豊か」というイメージって、「村人側」がうまくゲイを受け入れるために作り出したカモフラージュ的なものなのだろうな、と思えてきます。
だから逆に、もしファッションとか芸術とか、赤鬼に何かしらの光るセンスがあれば、村人たちも心を開きやすかったのかもしれません(ひどい話ですが)。
となると、少しの希望を『泣いた赤おに』のラストシーンにつけくわえるとしたら、やはりそれはタンゴになるのではないでしょうか。
って歌と絵本につながりはないでしょうし自分でもデタラメ言ってるなと思うのですが、なんだかこう書いているうちに、赤鬼には、ぜひとも青鬼を思い浮かべて涙鼻水垂らしながら、悲しみのラスト・タンゴを踊ってほしくなってしまったのでした。
尾藤イサオが歌っていたんですね。初めて知りました。いやしかし曲はやっぱりかっこいいし、キャラクターもかわいらしいです。
ところで、懐かしさ胸一杯でこれを見ていたら、おや、と思うところがありました。
なんだか、赤鬼と青鬼って、ゲイっぽい。
そんなふうに思ってしまったのです。
人間が眠りこけた頃に、赤鬼と青鬼の二人は繁みでゴソゴソと何をやっているのか。
タンゴです。
いやタンゴって、二人とも「男」に見えるけど、手をつないで見つめあったりしてこれは愛し合っているのではないのか。
そうかもしれません、でもよくわかりません。
まじめに考えると、不思議です。
そしてついつい赤鬼と青鬼の燃えたぎるようなラブストーリーを思い浮かべてしまったのですが、そうしたらふと『泣いた赤おに』のことを思い出しました。
多くの人がご存知かもしれませんが、物語はこんな具合です。
山の中に、一人の赤鬼が住んでいました。赤鬼は、人間たちとも仲良くしたいと考えて、自分の家の前に、 「心のやさしい鬼のうちです。どなたでもおいでください。おいしいお菓子がございます。お茶も沸かしてございます。」
と書いた、立て札を立てました。
けれども、人間は疑って、誰一人遊びにきませんでした。赤鬼は悲しみ、信用してもらえないことをくやしがり、おしまいには腹を立てて、立て札を引き抜いてしまいました。そこへ、友達の青鬼が訪ねて来ました。青鬼は、わけを聞いて、赤鬼のために次のようなことを考えてやりました。
青鬼が人間の村へ出かけて大暴れをする。そこへ赤鬼が出てきて、青鬼をこらしめる。そうすれば、人間たちにも、赤鬼がやさしい鬼だということがわかるだろう、と言うのでした。しかし、それでは青鬼にすまない、としぶる赤鬼を、青鬼は、無理やり引っ張って、村へ出かけて行きました。
計画は成功して、村の人たちは、安心して赤鬼のところへ遊びにくるようになりました。毎日、毎日、村から山へ、三人、五人と連れ立って、出かけて来ました。こうして、赤鬼には人間の友達ができました。赤鬼は、とても喜びました。しかし、日がたつにつれて、気になってくることがありました。それは、あの日から訪ねて来なくなった、青鬼のことでした。
ある日、赤鬼は、青鬼の家を訪ねてみました。青鬼の家は、戸が、かたく、しまっていました。ふと、気がつくと、戸のわきには、貼り紙がしてありました。そして、それに、何か、字が書かれていました。
「赤鬼くん、人間たちと仲良くして、楽しく暮らしてください。もし、ぼくが、このまま君と付き合っていると、君も悪い鬼だと思われるかもしれません。それで、ぼくは、旅に出るけれども、いつまでも君を忘れません。さようなら、体を大事にしてください。どこまでも君の友達、青鬼。」
赤鬼は、だまって、それを読みました。二度も三度も読みました。戸に手をかけて顔を押し付け、しくしくと、なみだを流して泣きました。
(http://www.kca.co.jp/~nuts/tanoshi/akaoni.htmより。)
私は20年も前に幼稚園のときの学芸会でブルーのトレーナーを着てお面をかぶって青鬼を演じたことがありますが、いまこうやって物語を読んでみると、もう赤鬼と青鬼がゲイカップルのように見えてしかたないです。しっかり原作を読んでいないので作者の方の思惑とかはわかりませんが、どうも赤鬼と青鬼の悲恋を描いたように思えてしまうのです。
ちょっと直してみるとこんな感じでしょうか。
怪物扱いされるゲイの赤鬼。ヘテロな村人たちに受け入れられたい。けど、じぶんはゲイ。ただそれだけで受け入れてもらえない。赤鬼はなかなかそれに気づかない。
そこで青鬼が言う。「村人になにか「誠意」を見せないといけない。「暴れるもう一人のゲイ青鬼をブッ倒す」、それならいける。そうすれば、君は村人たちにとって自分たちを守ってくれる存在になれる。村人にゲイの赤鬼と仲よくする特別の理由を与えることができる」、と。
計画は成功して、赤鬼はヘテロな村人になじめるようになる。でも青鬼の姿がめっきり見えない。愚鈍な赤鬼はここでようやく気付く。「ゲイでおまけに凶暴な」青鬼を一生失ってしまったことに。
けっこう強引だけど、こんな具合。
でも、子供むけの話にゲイっぽい要素が紛れ込むというのは、よくあることな気がします。それは子供という存在が性が未分化な存在だから、だと思いますが、この辺に関してはたとえば、こちらのエントリ「『モンスターズ・インク』はどこまで「ピクサーヴォルト」か?」とそのリンク先が参考になります。
で、この『泣いた赤鬼』を勝手にゲイの話として読んだときにひとつ面白いなと思うのは、これが「愚鈍なゲイ」を描いていることです。ヘテロに溶け込むか、ゲイとしてこっそり生きるか、という究極の選択を迫られたとき、「なにかしらの特殊な能力」をうまく使えれば、その後の展開もハッピーに進みます。実際、上記のリンク先にもあるように、ピクサーの数々の映画にゲイの要素を読もうとすると、主人公の特殊な能力とハッピーエンドというのがセットになってくるように思えます。
でも何の能力もない「ただのゲイ」は、どちらかの選択をせざるをえません。赤鬼は村人に溶け込むことで「ヘテロに溶け込む」ことを選びました。すると「ゲイとして(青鬼と)こっそり生きる」道は断たれてしまうわけです。
でも、あたりまえのことですが、世の中には「ただのゲイ」のほうが多いはず。
そう考えると、よくある「ゲイって感性が豊か」というイメージって、「村人側」がうまくゲイを受け入れるために作り出したカモフラージュ的なものなのだろうな、と思えてきます。
だから逆に、もしファッションとか芸術とか、赤鬼に何かしらの光るセンスがあれば、村人たちも心を開きやすかったのかもしれません(ひどい話ですが)。
となると、少しの希望を『泣いた赤おに』のラストシーンにつけくわえるとしたら、やはりそれはタンゴになるのではないでしょうか。
って歌と絵本につながりはないでしょうし自分でもデタラメ言ってるなと思うのですが、なんだかこう書いているうちに、赤鬼には、ぜひとも青鬼を思い浮かべて涙鼻水垂らしながら、悲しみのラスト・タンゴを踊ってほしくなってしまったのでした。
映画『グラン・トリノ』と「技術」の話。
2009年04月30日 / その他
「技術」についての映画。もしくは、「技術」の映画。
クリント・イーストウッドの映画『グラン・トリノ』をもし一言で表すとしたら、そんな感じでした。
一言で言えてないけど。
それにしてもいい映画でした。
イーストウッドの一つひとつの仕草にぐっときて、くうっと愛らしく感じて、くすりと笑ってしまう、それぐらいいい映画だったのだけど、あえてひとつ言葉を引っ張ってくるとしたら、それは私の中では「技術」になるのでした。
クリント・イーストウッド演じるウォルト・コワルスキーは、45年間フォードに勤め上げた元技術工。
ウォルトのガレージにはたくさんの工具が置いてあって、彼はひとつひとつの工具が何の役に立つのか熟知している。
道具がなくても、蛇口や乾燥機などなど、彼はたいていのものなら直せてしまう。
だから「技術」、という言葉が浮かんでくるのだけど、でもそれだけではなくって、道具も行為も、なんだって頭で考える前に体になじんでいるかどうか、じぶんの体におさまっているかどうか、そういう意味での「技術」。
この映画はそんな「技術」についての、そして「技術」の映画であるように思えたのです。
たとえば、ウォルトが「男らしさ」を、隣に越してきたちょっと内気なモン族の少年タオに教える場面。
ウォルトは仲の良いイタリア系の理髪師のもとにタオを連れていき、理髪師に対して「まぬけなイタ公」だとか、ともかく口汚く話しかけ、それをタオにも真似させようとする。ウォルトの言葉は人種差別的だったり卑猥だったりして、ポリティカルには問題があるものだけど、でも、それは中西部の男同士の、それこそ西部劇的な、絆を確かめる儀式のようなものでもあるのです。
日本で言えば「ネタ」、もしくは、「コミュニケーション・スキル」という言葉が近いのかもしれません。でも、そういった言葉はどこか体から離れていて、頭の上あたりに浮かんでいる言葉で、何となく歯の裏側がムズムズしてしまいます。ウォルトの話す口汚いスラングは、そういう上っ面な感じはなく、むしろ匂いすら感じられるぐらい、体に染みついているわけです。それは車のオイルのような匂いでとてもいい匂いとは言えないのかもしれないけど、その体に染みついたスラングや仕草は、「技術」という言葉がぴったりに思えます。
そしてもうひとつ、このウォルトがイーストウッド自身であるようにしか見えないこと。
あたりまえのことかもしれませんが、何十年もカメラの前に立ち続けた俳優の「技術」がそこにある、そんなふうに感じてしまいます。アクターズ・スタジオの「メソッド」とか役者としての「スキル」が、なにか自分の上に積み重ねて練り上げるたぐいのものだとしたら、「技術」というのは自分の周りにあるものをとことん削っていくもの、かもしれません。そもそも俳優が自分の体と世界の関係を見せる職業であるとしたら、体からはみ出すようなことを決してしないのがいい役者なのかもしれません。
ともかく、そこにいるのがイーストウッドにしか見えない、というのは最高の「技術」であるように思えたわけです。
ちなみに、ウォルトには朝鮮戦争で13人以上の敵兵を殺したという過去があります。
それは、暴力という、じぶんの体からはみ出した行為でした。彼はそれを悔いてそれ以後「技術工」として生きてきたのだけど、いま、タオを引き込もうとするギャングとの対決に迫られます。ウォルトはタオとの交流を経て、暴力ではなく、じぶんの体からはみ出すことのない解決策を見出すのですが・・・、それは見てからのお楽しみということで。
ともかくこういうわけで、この『グラン・トリノ』が「技術」についての、そして「技術」の映画だと思ったのでした。
それにしても、イーストウッドが72年の「グラン・トリノ」だったら、私の世代はなんになるだろう? とついつい考えてしまい、実家にあるファミコンを大事に取っておこうかな、なんて思い始めています。
「データなんかぢゃねえ、それがカセットの重みだ。ハッ、せいぜい裏側をフーフーするんだな」、とか隣のガキに言い放つがんこじいさんになることを夢見て。
蜷川幸雄演出『95kgと97kgのあいだ』と「政治劇」の話と
2009年03月31日 / 演劇
3月はフェスティバル・トーキョーもあって、いつもよりかなり多く劇場に足を運んだ1ヶ月でした。
その中のひとつ、蜷川幸雄演出・清水邦夫作『95kgと97kgのあいだ』を見たのですが、これには色々と考えてしまいました。
ストーリーは正直よくわからないところが多くて困りましたが、『行列』という芝居を若い俳優たちが演じているところに、かつて『行列』を演じた俳優たち(さいたまゴールド・シアターの平均年齢70歳の俳優たち)が現れて…という点に端的に表れているように、世代間の対立ということがひとつのわかりやすいテーマではありました。
ただ、この点が「若者」に分類される自分としては、非常に問題含みのように思えました。
さいたまゴールド・シアターの俳優たちは身体的負荷をかけられながら懸命に演技するのですが、若手の俳優の演技体もまったく同じで、演出の蜷川自身が「上の世代」に属していることを考えても、それは「自分たちはまだまだやれる」とか「老いてなお自己実現」といったことの表明であるように思えます。
だから、さいたまゴールド・シアターの俳優たちは「非常に生き生きと」してはいるのですが、一体それは何が担保しているのか、とつい気になってしまうのです。
穿った見方にも思えますが、これだけ世代間のギャップが顕在化しているなかで、若者の演技体を担保にーーそして観客の視線を担保にーー「自分たちがまだまだやれる」、と表明してしまうのはあまりに呑気というか、現実に無頓着であるように思えてしまいます。
だったら世代間で演技体を変えるなりなんなりして自分たちの世代を対象化してみせるほうが、「老い」というものの奇怪さを観客に突きつけるようで、クールなことのように思ってしまうのです。
ただ、私は老人の身体性を非常に面白いと思っています。
実際、さいたまゴールド・シアターの俳優たちは、むしろ演技の合間につい気を抜いてしまったかのように佇んでいるとき、言ってしまえば不思議なくらいに「呆けた表情をしているとき」のほうが、言わば「遊びのある」身体をしていました。
老人の身体は、たぶん子どもの身体と同じように、一人歩きして勝手に遊びます。例えば同じフェスティバル・トーキョーの招待作品のひとつ、リミニプロトコルの 『資本論』に出演していた高齢の方々の身体は、演技から距離を置くことによって「時間的蓄積」というものの不可思議さがにじみ出ているようでした。
ほかにも映像でしか見ていないのであんまり迂闊なことは言えませんが、ピナ・バウシュが65歳以上の老人で上演した『コンタクトホーフ』にしても、老人の身体性を巧みに引き出した舞台であるように思います。
YouTubeに動画がアップされていました。
そもそも映像のほうが、老人の身体性の面白さをぐっと引き立てるのかもしれません。たとえば、平均年齢80歳のロックコーラスを追ったドキュメンタリー『ヤング@ハート』。
要するに何が言いたいのかといえば、これだけ大勢の「老人」を集めながら、こんなにも身体の面白さを消すような演技をしてしまってはもったいない、そんなふうに思ってしまったのです。
■
ところで、公演を見た帰り道、都電の席に座ったら隣の60歳前後の男性に話しかけられました。
その方はいきなり
「政治劇すごいね」
と言うのでてっきりこの劇のことかと思ったのですがそうではなく、一連の民主党小沢代表をめぐる事件のことでした。
聞き取りづらく私が聞き直すと、その男性は
「あなたも関心ない人?」
と聞いてきました。
どうやら(政治に関心のある)若者と政治について世間話をしたいようで、自民党の陰謀についてとうとうと語ってくれました。私はなんてタイミングだろうと思い、劇を反芻しつつ、世代というものをぼんやりと考えながら、その方と話をすることにしました。
正直なところ急に話しかけられて一瞬身構えてしまったのですが、せっかくの機会ですので、ええ、とか、ああそうですか、とか流したりせずに、意見を伺ってみることにしたのです。
結局、北朝鮮をめぐる陰謀論につづき911をめぐる陰謀論を聞いているあいだに駅に着いてしまい、うまく考えを引きだすこともできぬまま話途中でその男性と別れました。
陳腐なオチではありますが、世代ってなんだろう、老いるってなんだろう、と家に帰るまでのしばらくのあいだ、疑問符がひょこひょこと頭のうえで踊り続けたのでした。
その中のひとつ、蜷川幸雄演出・清水邦夫作『95kgと97kgのあいだ』を見たのですが、これには色々と考えてしまいました。
ストーリーは正直よくわからないところが多くて困りましたが、『行列』という芝居を若い俳優たちが演じているところに、かつて『行列』を演じた俳優たち(さいたまゴールド・シアターの平均年齢70歳の俳優たち)が現れて…という点に端的に表れているように、世代間の対立ということがひとつのわかりやすいテーマではありました。
ただ、この点が「若者」に分類される自分としては、非常に問題含みのように思えました。
さいたまゴールド・シアターの俳優たちは身体的負荷をかけられながら懸命に演技するのですが、若手の俳優の演技体もまったく同じで、演出の蜷川自身が「上の世代」に属していることを考えても、それは「自分たちはまだまだやれる」とか「老いてなお自己実現」といったことの表明であるように思えます。
だから、さいたまゴールド・シアターの俳優たちは「非常に生き生きと」してはいるのですが、一体それは何が担保しているのか、とつい気になってしまうのです。
穿った見方にも思えますが、これだけ世代間のギャップが顕在化しているなかで、若者の演技体を担保にーーそして観客の視線を担保にーー「自分たちがまだまだやれる」、と表明してしまうのはあまりに呑気というか、現実に無頓着であるように思えてしまいます。
だったら世代間で演技体を変えるなりなんなりして自分たちの世代を対象化してみせるほうが、「老い」というものの奇怪さを観客に突きつけるようで、クールなことのように思ってしまうのです。
ただ、私は老人の身体性を非常に面白いと思っています。
実際、さいたまゴールド・シアターの俳優たちは、むしろ演技の合間につい気を抜いてしまったかのように佇んでいるとき、言ってしまえば不思議なくらいに「呆けた表情をしているとき」のほうが、言わば「遊びのある」身体をしていました。
老人の身体は、たぶん子どもの身体と同じように、一人歩きして勝手に遊びます。例えば同じフェスティバル・トーキョーの招待作品のひとつ、リミニプロトコルの 『資本論』に出演していた高齢の方々の身体は、演技から距離を置くことによって「時間的蓄積」というものの不可思議さがにじみ出ているようでした。
ほかにも映像でしか見ていないのであんまり迂闊なことは言えませんが、ピナ・バウシュが65歳以上の老人で上演した『コンタクトホーフ』にしても、老人の身体性を巧みに引き出した舞台であるように思います。
YouTubeに動画がアップされていました。
そもそも映像のほうが、老人の身体性の面白さをぐっと引き立てるのかもしれません。たとえば、平均年齢80歳のロックコーラスを追ったドキュメンタリー『ヤング@ハート』。
要するに何が言いたいのかといえば、これだけ大勢の「老人」を集めながら、こんなにも身体の面白さを消すような演技をしてしまってはもったいない、そんなふうに思ってしまったのです。
■
ところで、公演を見た帰り道、都電の席に座ったら隣の60歳前後の男性に話しかけられました。
その方はいきなり
「政治劇すごいね」
と言うのでてっきりこの劇のことかと思ったのですがそうではなく、一連の民主党小沢代表をめぐる事件のことでした。
聞き取りづらく私が聞き直すと、その男性は
「あなたも関心ない人?」
と聞いてきました。
どうやら(政治に関心のある)若者と政治について世間話をしたいようで、自民党の陰謀についてとうとうと語ってくれました。私はなんてタイミングだろうと思い、劇を反芻しつつ、世代というものをぼんやりと考えながら、その方と話をすることにしました。
正直なところ急に話しかけられて一瞬身構えてしまったのですが、せっかくの機会ですので、ええ、とか、ああそうですか、とか流したりせずに、意見を伺ってみることにしたのです。
結局、北朝鮮をめぐる陰謀論につづき911をめぐる陰謀論を聞いているあいだに駅に着いてしまい、うまく考えを引きだすこともできぬまま話途中でその男性と別れました。
陳腐なオチではありますが、世代ってなんだろう、老いるってなんだろう、と家に帰るまでのしばらくのあいだ、疑問符がひょこひょこと頭のうえで踊り続けたのでした。
ケンサクくんのこころ
2009年02月28日 / その他
放課後の教室で窓の前でぼーっとしている少女がいて、その視線の先にはグラウンドで懸命に走っている意中の男子がいる、でも彼の名前とか詳しいこととかは全然知らない、だから余計に思い焦がれてしまう、なんてことが、このご時世本当に起こりうるのかは定かではありません。
ただ、意中の人のイメージがあって、その瞳の輪郭までクリアに思い出せるけど何してる人だとか名前だとかそんな詳しいことは全然知らなかったりして、検索窓のまえでぼーっとしてしまい、余計に悔しくなってしまう、ということは多くの人が経験していることではないかと思います。
こういうことを考えるとき、いつも思うのは、検索窓には言葉しか入れられない、ということです。愛は言葉以外にも瞳や仕草で豊かに語るべきものだと散々聞かされているというのに、検索エンジンは基本的に言葉しか受け入れてくれません。
そう、検索エンジン、ケンサクくんはどんな言葉もまじめに受け取ってまじめに返してしまう、生粋のカタブツなのです。だから、スペルをちょろっと間違ってしまえばケンサクくんには通じませんし、似ている言葉なら何でも探してしまうというまじめさから、自分ではまったく気付かずに、とんでもない下ネタを発してしまう、なんてこともありました。ちょいと前のことですが、ケンサクくんに「あんこなめたい」だとか「あんこ食べたい」だとか言うと、とんでもないお返事を返してくれる、と話題になって、みんなでよってたかってまじめなケンサクくんにあんこあんこと言ったのでした。(参考:「あんこなめたい」のその後)
どんなこともしっかり言葉で考えてくれるから、むしろ愛らしいぐらいかもしれませんが、ケンサクくんは、ほっぺが赤くて眉毛が濃くて、瓶底メガネに角帽で、常に姿勢がいい、そんな絵に描いたようなカタブツなのです。
一方で、そんなカタブツなケンサクくんをおしゃれでハートフルな感じに改造しちゃおう、なんていう動きも出ています。たとえば、話題的にはちょっと古いかもしれませんが、こちらのサイト「midomi」。
midomi
http://www.midomi.co.jp/
「歌やハミングを録音して音楽を検索しましょう。」と謳っているとおり、言葉だけじゃなく歌でケンサクできるサイトです。J-WAVEが「鼻歌なら思い出せるけど歌手名も曲名もわかんないよ!」という人たちのために「あなたの鼻歌から音楽を探しまっせ!」という番組をやっていて、私もこの番組に一度採用されてある舞台でさんざん使用されて耳に残っちゃった曲が何だったのか教えてもらったことがありますが、それを考えるとこのmidomiは、J-WAVEに聞くまでもなく検索できちゃうスゴイやつ、ということになるでしょう。ただ、正直なところ、鼻歌をアップするのが面倒なうえにヒットする曲も限られていたりして、日本ではあんまり普及していないようですが・・・(トップソングはなぜかインド系の音楽が多いような、と思ったらこのサイトを作った人たちがインド系の人たちだったみたいです)。
とはいえ、このmidomiの試みは、言葉しか受け入れてくれないケンサクくんに感性を授けるものであるように見えます。マジメなカタブツ・ロボット、ケンサクくんにハートを与える、そんな作業のように見えるのです。
では、歌以外にも、ケンサクくんをよりヒューマーン!なロボットにするにはどうしたらいいでしょうか。と考えると、どうも五感を与えることが大切なことのように思えます。今のケンサクくんは言葉しか知りませんし、「イメージ・ケンサク」にしたって、基本的にはイメージを言葉に落とし込んだうえで分類しています。頭でっかちなケンサクくんは、美術館に行ったらまず作品名と作者と解説を読んでから作品に触れるようなヤツなのです。
だから、いまわたしたちはサリバン先生のように、ケンサクくんに水の触感や水の流れる音を教えてあげる必要があります。「うぉ、うぉ、ウォーター!」とヘレンケラーは叫び言葉を思い出しましたが、「ウォーター? ウォーターボーイズのことが知りたいの? それともミネラルウォーターのことが知りたいの?」なーんてほんとは何にも知らないくせに知ったかぶりだけは達者なケンサクくんには、思いっきり水をぶっかけてやりましょう。そうすればケンサクくんだってわかるはずです。「こ、これがウォーターの冷たさ・・・! うぉ、ウォーターのしたたる音・・・! ハッ、ウォーターがまさにいま僕の皮膚から蒸発して熱を奪ってる! これが、うぉ、うぉ、ウォーター!!」、ってなぐあいに。
さてさて、もっと具体的に言うと、タッチパッドがそのまま検索窓に対応していて簡単に絵を描けてそれに対応するようなイメージが言葉を介さずに検索される、なんてことを想像したけど、そこらへん技術的な部分はちっともわかりませんので、このへんでひとまず終わりにします。
ただ、意中の人のイメージがあって、その瞳の輪郭までクリアに思い出せるけど何してる人だとか名前だとかそんな詳しいことは全然知らなかったりして、検索窓のまえでぼーっとしてしまい、余計に悔しくなってしまう、ということは多くの人が経験していることではないかと思います。
こういうことを考えるとき、いつも思うのは、検索窓には言葉しか入れられない、ということです。愛は言葉以外にも瞳や仕草で豊かに語るべきものだと散々聞かされているというのに、検索エンジンは基本的に言葉しか受け入れてくれません。
そう、検索エンジン、ケンサクくんはどんな言葉もまじめに受け取ってまじめに返してしまう、生粋のカタブツなのです。だから、スペルをちょろっと間違ってしまえばケンサクくんには通じませんし、似ている言葉なら何でも探してしまうというまじめさから、自分ではまったく気付かずに、とんでもない下ネタを発してしまう、なんてこともありました。ちょいと前のことですが、ケンサクくんに「あんこなめたい」だとか「あんこ食べたい」だとか言うと、とんでもないお返事を返してくれる、と話題になって、みんなでよってたかってまじめなケンサクくんにあんこあんこと言ったのでした。(参考:「あんこなめたい」のその後)
どんなこともしっかり言葉で考えてくれるから、むしろ愛らしいぐらいかもしれませんが、ケンサクくんは、ほっぺが赤くて眉毛が濃くて、瓶底メガネに角帽で、常に姿勢がいい、そんな絵に描いたようなカタブツなのです。
一方で、そんなカタブツなケンサクくんをおしゃれでハートフルな感じに改造しちゃおう、なんていう動きも出ています。たとえば、話題的にはちょっと古いかもしれませんが、こちらのサイト「midomi」。
midomi
http://www.midomi.co.jp/
「歌やハミングを録音して音楽を検索しましょう。」と謳っているとおり、言葉だけじゃなく歌でケンサクできるサイトです。J-WAVEが「鼻歌なら思い出せるけど歌手名も曲名もわかんないよ!」という人たちのために「あなたの鼻歌から音楽を探しまっせ!」という番組をやっていて、私もこの番組に一度採用されてある舞台でさんざん使用されて耳に残っちゃった曲が何だったのか教えてもらったことがありますが、それを考えるとこのmidomiは、J-WAVEに聞くまでもなく検索できちゃうスゴイやつ、ということになるでしょう。ただ、正直なところ、鼻歌をアップするのが面倒なうえにヒットする曲も限られていたりして、日本ではあんまり普及していないようですが・・・(トップソングはなぜかインド系の音楽が多いような、と思ったらこのサイトを作った人たちがインド系の人たちだったみたいです)。
とはいえ、このmidomiの試みは、言葉しか受け入れてくれないケンサクくんに感性を授けるものであるように見えます。マジメなカタブツ・ロボット、ケンサクくんにハートを与える、そんな作業のように見えるのです。
では、歌以外にも、ケンサクくんをよりヒューマーン!なロボットにするにはどうしたらいいでしょうか。と考えると、どうも五感を与えることが大切なことのように思えます。今のケンサクくんは言葉しか知りませんし、「イメージ・ケンサク」にしたって、基本的にはイメージを言葉に落とし込んだうえで分類しています。頭でっかちなケンサクくんは、美術館に行ったらまず作品名と作者と解説を読んでから作品に触れるようなヤツなのです。
だから、いまわたしたちはサリバン先生のように、ケンサクくんに水の触感や水の流れる音を教えてあげる必要があります。「うぉ、うぉ、ウォーター!」とヘレンケラーは叫び言葉を思い出しましたが、「ウォーター? ウォーターボーイズのことが知りたいの? それともミネラルウォーターのことが知りたいの?」なーんてほんとは何にも知らないくせに知ったかぶりだけは達者なケンサクくんには、思いっきり水をぶっかけてやりましょう。そうすればケンサクくんだってわかるはずです。「こ、これがウォーターの冷たさ・・・! うぉ、ウォーターのしたたる音・・・! ハッ、ウォーターがまさにいま僕の皮膚から蒸発して熱を奪ってる! これが、うぉ、うぉ、ウォーター!!」、ってなぐあいに。
さてさて、もっと具体的に言うと、タッチパッドがそのまま検索窓に対応していて簡単に絵を描けてそれに対応するようなイメージが言葉を介さずに検索される、なんてことを想像したけど、そこらへん技術的な部分はちっともわかりませんので、このへんでひとまず終わりにします。
フランスで、予想どおりに不合理
2009年01月22日 / その他

『予想どおりに不合理』という本を買いました。ただ、まだ読んでいません。内容に関しては、たとえばこちらのブログで紹介されています。
POLAR BEAR BLOG: 『予想どおりに不合理』がもうすぐ出るよ。なぜ、読む前からこの本について書こうかと思ったかといえば、この本を最初に知ったのがフランスにいたときだったからです。
http://akihitok.typepad.jp/blog/2008/11/post-72e4.html
昨年の2月ごろ、友人たちとヨーロッパを旅行したのですが、私は1週間だけ長く滞在しました。リヨンにいる妹に会いに行ったからですが、最後に空港の関係で一日だけパリに泊まりました。
ユースホステルに着くと、相部屋に通されました。5人部屋で、すでに3人組が滞在していました。彼らはアメリカ人で、一人はおそらく韓国系の女の子、二人はおそらくインド系の男の子。全員大学の同級生、とのことでした。
まず、女一人に男二人で旅行、ということにちょっと驚きました。映画などではよくあるシチュエーションですが、日本ではあまり見かけません。彼らはものすごく仲が良さそうでした。
彼らも最終日で、早朝に出ていく、とのことでした。なので3人ともすぐ寝てしまったりして、あまり話したりはしなかったのですが、私が「何を専攻しているの?」と聞くと、「MBA」と答えてくれました。
それを聞いて、私は「MBA! おお」と、唸ってしまいました。正直なところ、MBAに関して「なんとなくすごそう」という程度にしか知らなかったのですが、「MBA」という言葉を聞くと、女一人男二人のサバサバした仲の良い関係が妙にしっくりくる気がしたのでした。
ちなみに「君は何を?」と聞かれたので、「アメリカの舞台芸術だよ」と答えましたが、「おもしろそうだね」と言ってくれるにとどまりました。そこで話題は打ち切りでした。
その後私はロビーに降り、そこで知り合ったスイス人のおばちゃんと香港人の男の子と5時間ぐらいしゃべりました。スイス人のおばちゃんが「(安部)首相突然辞めたでしょ」と言っていたのが印象的でした。香港人に「『男たちの挽歌』、好きなんだよね」と言ったら「それちょっと古いよね」と言われたのも鮮明に覚えています。
深夜になり、しゃべり疲れて部屋に戻ると3人は寝ていて、先ほどは散らかっていたスーツケースがドアの脇に整理されていました。そして、ひとつのスーツケースの上に、一冊の本がカバーが外された状態で置いてあるのに気づきました。興味本位に見てみると、そこには「Predictably Irrational」と書かれていました。
この本が『予想どおりに不合理』だったわけです。その場で訳してみても「予想ができるぐらいに不合理?」となるだけでよく意味がわからなかったのと、本場MBAの人が読む本、ということで、妙に記憶に残っていました。なので、上記リンク先の記事を読んだとき、邦題が思いきり直訳だったということもあり、「あれか! MBAの人が読んでたあれか!」と、すぐにピンと来たのでした。
とはいえ、全米ベストセラーだそうなので、経済に興味のある人はそこそこ読んでいるのでしょうけど、ね。
映画『イースタン・プロミス』について考える
2008年12月10日 / その他
DVDでようやく映画『イースタン・プロミス』を見た。
『ヒストリー・オブ・バイオレンス』に続く、デヴィッド・クローネンバーグとヴィゴ・モーテンセンのコンビ。本当は映画館で見たかった。
久しぶりに映画を見てじっくり考えてみたので、下にちょろちょろと書いてみる。
(以下、ネタバレも含みます)
それにしても、映画史上最も生々しいのではないかという、公衆浴場での全裸の格闘シーンを始め、全編通して「血」と「肉体」がとにかく印象に残る。ロシアン・マフィアの人身売買や売春、タトゥー、血液採取、父と子の血を介した因縁。一切ピストルが使用されず、肉体は全てナイフで切り刻まれる。裏切り者は首もとをかき切られ、死体は指を切られる。その切断=去勢のイメージは、ひとつはマフィアのボスのダメ息子、キリル(ヴァンサン・カッセル)に憑いてまわる。彼は、父親のように少女を犯すことができず、性的にも組織的にも全く「役に立たない」のだ。
そしてもうひとつ、切断=去勢のイメージは、何より徹底して受身のニコライ(ヴィゴ・モーテンセン)に結実する。終盤、マフィアお抱えの運転手と思われていた彼が潜入捜査官であることが明らかになるが、かといってその態度に変化が表れることは決してない。感情を決して表に出さず、15のときに一度死んだと言ってのけ、マフィアであれ警察であれ、彼は言われるがままに動く。言ってしまえば、筋骨隆々たるにもかかわらず、彼はきわめて女性的な存在なのだ。
マフィアがニコライを一族に向かい入れるために、彼の肉体にタトゥーを入れる場面では、彼は全裸同然の格好になってマフィアのお偉方の前にひざまずく。その姿は実になまめかしく、まるでペニスのように針が彼の肉体を突き、ゆっくりとタトゥーを描きあげていく。だからこそ、キリルとニコライの「男同士の絆」は時に危うく、ホモエロティックな感覚さえ与えることになるのだ。
一方で、徹底して受身の、女性的な態度をとるニコライが「血」とは無関係に最終的に生き残るように、女もまた「血」とは無関係に生きることができる。看護士のアンナ(ナオミ・ワッツ)は赤の他人の赤ん坊を我が子のように可愛がり、最終的にはその子を引き取って、母親とともに3人で暮らしていくことを選択する。
このとき興味深いのは、この映画のいたるところにキリスト教的モチーフがあふれていることだ。題名の「イースタン・プロミス」からして――まずは「英国における東欧組織による人身売買契約」を指すそうだが――、キリストの生誕を暗示する。事実、アンナが引き取る赤ん坊はクリスマスに生まれている。また、アンナは「マリアの母」であり、ニコライは「聖ニコラウス」である。他にもキリスト教的モチーフはいたるところに表れていると思われるが、ただ、ここで重要なのは、むしろ赤ん坊が女の子で、「クリスティーン」と名づけられていることだ。ニコライが徹底的に女性的であることによって生き残り、アンナが女性3人で暮らすことを選択するこの映画において、希望はキリスト=「男の子」ではなく、クリスティーン=「女の子」に託されているのだ。
血と肉体に基づいた男性原理は、マフィアであれ警察であれ、非常に脆く、いずれキリルのようにどん詰まりに陥る。現実をゆるやかに受け入れることのできる女性原理だけが、生き残ることができる。ただ、徹底的に女性的に振舞うニコライとアンナは交じわりそうでいて最後まで決して交わらない。このあたりに『ヒストリー・オブ・バイオレンス』のテーマを継承しているのだろう。結局のところ、一度血の味を知ってしまった肉体は決して後戻りすることができない。もはや血で血を洗うほかない。それがまさに「暴力の歴史」だ。ニコライは「生き残る」ことによって、組織の権力関係から抜け出し、もはや受身では、女性的ではいられなくなってしまうのだ。
もちろん、それでもラストシーン、無言のまま紫煙をくゆらすヴィゴ・モーテンセンはとにかく艶やかで色っぽい。組織の権力関係と男女の権力関係を「ほとんど」同列に並べるこの映画は、徹底的に受身に振舞うニコライのその行く末を、観客の想像に委ねることになるのだ。
『ヒストリー・オブ・バイオレンス』に続く、デヴィッド・クローネンバーグとヴィゴ・モーテンセンのコンビ。本当は映画館で見たかった。
久しぶりに映画を見てじっくり考えてみたので、下にちょろちょろと書いてみる。
(以下、ネタバレも含みます)
それにしても、映画史上最も生々しいのではないかという、公衆浴場での全裸の格闘シーンを始め、全編通して「血」と「肉体」がとにかく印象に残る。ロシアン・マフィアの人身売買や売春、タトゥー、血液採取、父と子の血を介した因縁。一切ピストルが使用されず、肉体は全てナイフで切り刻まれる。裏切り者は首もとをかき切られ、死体は指を切られる。その切断=去勢のイメージは、ひとつはマフィアのボスのダメ息子、キリル(ヴァンサン・カッセル)に憑いてまわる。彼は、父親のように少女を犯すことができず、性的にも組織的にも全く「役に立たない」のだ。
そしてもうひとつ、切断=去勢のイメージは、何より徹底して受身のニコライ(ヴィゴ・モーテンセン)に結実する。終盤、マフィアお抱えの運転手と思われていた彼が潜入捜査官であることが明らかになるが、かといってその態度に変化が表れることは決してない。感情を決して表に出さず、15のときに一度死んだと言ってのけ、マフィアであれ警察であれ、彼は言われるがままに動く。言ってしまえば、筋骨隆々たるにもかかわらず、彼はきわめて女性的な存在なのだ。
マフィアがニコライを一族に向かい入れるために、彼の肉体にタトゥーを入れる場面では、彼は全裸同然の格好になってマフィアのお偉方の前にひざまずく。その姿は実になまめかしく、まるでペニスのように針が彼の肉体を突き、ゆっくりとタトゥーを描きあげていく。だからこそ、キリルとニコライの「男同士の絆」は時に危うく、ホモエロティックな感覚さえ与えることになるのだ。
一方で、徹底して受身の、女性的な態度をとるニコライが「血」とは無関係に最終的に生き残るように、女もまた「血」とは無関係に生きることができる。看護士のアンナ(ナオミ・ワッツ)は赤の他人の赤ん坊を我が子のように可愛がり、最終的にはその子を引き取って、母親とともに3人で暮らしていくことを選択する。
このとき興味深いのは、この映画のいたるところにキリスト教的モチーフがあふれていることだ。題名の「イースタン・プロミス」からして――まずは「英国における東欧組織による人身売買契約」を指すそうだが――、キリストの生誕を暗示する。事実、アンナが引き取る赤ん坊はクリスマスに生まれている。また、アンナは「マリアの母」であり、ニコライは「聖ニコラウス」である。他にもキリスト教的モチーフはいたるところに表れていると思われるが、ただ、ここで重要なのは、むしろ赤ん坊が女の子で、「クリスティーン」と名づけられていることだ。ニコライが徹底的に女性的であることによって生き残り、アンナが女性3人で暮らすことを選択するこの映画において、希望はキリスト=「男の子」ではなく、クリスティーン=「女の子」に託されているのだ。
血と肉体に基づいた男性原理は、マフィアであれ警察であれ、非常に脆く、いずれキリルのようにどん詰まりに陥る。現実をゆるやかに受け入れることのできる女性原理だけが、生き残ることができる。ただ、徹底的に女性的に振舞うニコライとアンナは交じわりそうでいて最後まで決して交わらない。このあたりに『ヒストリー・オブ・バイオレンス』のテーマを継承しているのだろう。結局のところ、一度血の味を知ってしまった肉体は決して後戻りすることができない。もはや血で血を洗うほかない。それがまさに「暴力の歴史」だ。ニコライは「生き残る」ことによって、組織の権力関係から抜け出し、もはや受身では、女性的ではいられなくなってしまうのだ。
もちろん、それでもラストシーン、無言のまま紫煙をくゆらすヴィゴ・モーテンセンはとにかく艶やかで色っぽい。組織の権力関係と男女の権力関係を「ほとんど」同列に並べるこの映画は、徹底的に受身に振舞うニコライのその行く末を、観客の想像に委ねることになるのだ。
拡張現実について妄想してみる
2008年11月16日 / その他
拡張現実(AR)の技術がすごいことになっている。
私が言うまでもないことだけれど、ちょっと前から話題のセカイカメラとか、
こんなAR技術とか、
関連の動画や記事などを一人もっそりと見ていると、わくわくして誰かの肩をぽんっと叩きたくなる。その人が振り向いたら、やたらとてかてかした顔で相手の当惑を気にすることもなく微笑みたくなる。文明開化ですぜ、旦那、と出鱈目に喜びたくなってしまう。そのぐらい、すごいことに思えるのだ。
ただ、残念なことに、技術的な知識が全くない。なので、こういった情報を知っても、低級サイバーパンクな妄想ばかりが膨らんでしまう。電車の中でついにやにやしてしまうぐらいに。
とまれ、ひとまず技術云々はさておいて、拡張現実についてちょっと考えてみたい。
まず、拡張現実について簡単に説明しておこう。といって、ろくに知識もない私が説明してもしかたがないので、ウィキペディアを引用すると、こんなふうに書いてある。
「現実の環境(の一部)に付加情報としてバーチャルな物体を電子情報として合成提示することを特徴とする」というのは、ドラゴンボールのスカウターを思い浮かべるとわかりやすい。メガネのようなフィルターを通して現実を見ると、「この店うまいよ」とか「駅行くならこっちが近道」とか、そんなコメントが表示されたり、情報を検索できるようになる、とか、そういうことだ。たぶん。
今はPCとか、セカイカメラのiphoneとか、既存のデバイスで実験している段階で、メガネ型にはまだ時間がかかりそう。ニコンからUPというのが出ていてイメージは近いけど、これは拡張現実とは今のところ関係ない。たぶん。
ただ、どのくらいの将来の話かはわからないけど、もし拡張現実がぶわーっと広がっていくとしたら、いずれメガネ型もでてくるだろう。それこそ『電脳コイル』の電脳メガネのように(ってこのアニメ、ろくに見ていないのだけども)。ただ、さらにそこから進めば、メガネ型ではないものも出てくる気がする。
それはどんなものかといえば、コンタクトレンズ型だ。
単純に、メガネをかけたくない人だっているだろうな、と考えて思いついただけで、電源はどうするとか、そういったことは一切考えていないけれど、コンタクトレンズ型を思いついて、これはいいかもしれない、と思ったことが二つある。
ひとつは、現実/拡張現実の切り替えの方法だ。四六時中拡張現実を見ていたら疲れちゃうだろうから、ふつうの現実の景色を見ているときと拡張現実を見ているとき、どういうふうにコンタクトレンズで切り替えるか、ということだけど、メガネ型なら、スカウターみたいに脇のボタンを押す、ということになるだろう。
コンタクトレンズ型の場合はもっと魅力的だ。ウィンクで切り替わる(ようにする)のだ。
すると、誰もが知っていながら恥ずかしくて日常ではあまり使わない「ウィンク」を、堂々とできるようになる。もちろん、そんなことに情緒的なメリット以外はあまりないし、実際やってみると、ウィンクというよりチック症のような感じもするけど、ウィンクでスイッチが切り替わる、というのは、やるのも見るのも楽しい気がするのだ。
たとえば、こういうことがおきるかもしれない。乗っている電車が停車駅に停まる。すると、乗り込んで来る人たちが、一斉にウィンクをする。「ちょっと暇」になる瞬間、人はウィンクをするようになるわけだ。もしかしたら美女が男に向かってウィンクをするとき(そんなの現実には見たことないけど)、その美女は二重の意味で男を試していることになるのかもしれない。
もうひとつは、コンタクトレンズ型だと、傍目には、拡張現実を見ているように見えないということだ。おそらく、メガネ型が浸透した世界では、メガネをかけている人とかけていない人の意味がぜんぜん違うものになってしまうだろう。すると、メガネをかけている人に見られると自分の情報をつぶさに読み込まれているような気がして、なにかいい気がしない、ということが起こりうる。その点、コンタクトレンズ型は見た目には変わらない。
これはすごいことになりそうな気がしている。なにせその人が何を見ているのか、さっぱりわからないのだ。隣にいる人、目の前の人、その人は同じ景色を見ているようで、まったく(とは言わないまでもその人の嗜好にあわせてカスタマイズされた)景色を見ていることになる。たとえば、マーケターは目に入る商品の情報を浴びるように見続けるかもしれないし、キャリアウーマン風の女性が実は「ウェブカレ」の拡張現実版に見とれている、なんてこともあるかもしれない。今のニコ動ユーザーに近い人たちは、「現実」につけられたコメントを見て、にやにやしているかもしれないし、突然「ちょwww」と言いながら街中で笑い出す人が出始めるかもしれない。うっかり神コメントが目に入ってしまい本当にコーラを噴出す人が出てきたら、それはちょっと嬉しい。
もちろん、拡張現実がなくても、こういった妄想は皆日ごろから行っていることだとは思う。電車の中でちょっとした妄想ににやにやしそうになって、あわててしかめ面をしたりコンタクトがずれたふりをして誤魔化そうとしたりしている私のような人間は山ほどいるのだと思う。
ただ、拡張現実の世界が開けると、「にやにや」はあたりまえのことになるかもしれない。妄想をしてうっかり笑いそうになったとして、それを止める必要はなくなるかもしれない。なにせ妄想は共有化されるのだ。電車の中では、それぞれがそれぞれの瞳に映る世界に笑い、あるいは泣く。「電車の中で化粧」どころの騒ぎではなくなる。そんな世界がディストピアなのか、それともユートピアなのか、それはさっぱりわからない。
ただ、電車の中のにやつきには、立派な理由ができる。これにはもう、にやにやが止まらない。それは確かだ。確かなのだ。
私が言うまでもないことだけれど、ちょっと前から話題のセカイカメラとか、
こんなAR技術とか、
関連の動画や記事などを一人もっそりと見ていると、わくわくして誰かの肩をぽんっと叩きたくなる。その人が振り向いたら、やたらとてかてかした顔で相手の当惑を気にすることもなく微笑みたくなる。文明開化ですぜ、旦那、と出鱈目に喜びたくなってしまう。そのぐらい、すごいことに思えるのだ。
ただ、残念なことに、技術的な知識が全くない。なので、こういった情報を知っても、低級サイバーパンクな妄想ばかりが膨らんでしまう。電車の中でついにやにやしてしまうぐらいに。
とまれ、ひとまず技術云々はさておいて、拡張現実についてちょっと考えてみたい。
まず、拡張現実について簡単に説明しておこう。といって、ろくに知識もない私が説明してもしかたがないので、ウィキペディアを引用すると、こんなふうに書いてある。
拡張現実(かくちょうげんじつ)とは現実環境にコンピュータを用いて情報を付加提示する技術、および情報を付加提示された環境そのものを示す。英語表記はAugmented Reality 、省略形はAR。バーチャルリアリティと対を成す概念。強化現実とも呼ばれ、現実の環境(の一部)に付加情報としてバーチャルな物体を電子情報として合成提示することを特徴とする。
「現実の環境(の一部)に付加情報としてバーチャルな物体を電子情報として合成提示することを特徴とする」というのは、ドラゴンボールのスカウターを思い浮かべるとわかりやすい。メガネのようなフィルターを通して現実を見ると、「この店うまいよ」とか「駅行くならこっちが近道」とか、そんなコメントが表示されたり、情報を検索できるようになる、とか、そういうことだ。たぶん。
今はPCとか、セカイカメラのiphoneとか、既存のデバイスで実験している段階で、メガネ型にはまだ時間がかかりそう。ニコンからUPというのが出ていてイメージは近いけど、これは拡張現実とは今のところ関係ない。たぶん。
ただ、どのくらいの将来の話かはわからないけど、もし拡張現実がぶわーっと広がっていくとしたら、いずれメガネ型もでてくるだろう。それこそ『電脳コイル』の電脳メガネのように(ってこのアニメ、ろくに見ていないのだけども)。ただ、さらにそこから進めば、メガネ型ではないものも出てくる気がする。
それはどんなものかといえば、コンタクトレンズ型だ。
単純に、メガネをかけたくない人だっているだろうな、と考えて思いついただけで、電源はどうするとか、そういったことは一切考えていないけれど、コンタクトレンズ型を思いついて、これはいいかもしれない、と思ったことが二つある。
ひとつは、現実/拡張現実の切り替えの方法だ。四六時中拡張現実を見ていたら疲れちゃうだろうから、ふつうの現実の景色を見ているときと拡張現実を見ているとき、どういうふうにコンタクトレンズで切り替えるか、ということだけど、メガネ型なら、スカウターみたいに脇のボタンを押す、ということになるだろう。
コンタクトレンズ型の場合はもっと魅力的だ。ウィンクで切り替わる(ようにする)のだ。
すると、誰もが知っていながら恥ずかしくて日常ではあまり使わない「ウィンク」を、堂々とできるようになる。もちろん、そんなことに情緒的なメリット以外はあまりないし、実際やってみると、ウィンクというよりチック症のような感じもするけど、ウィンクでスイッチが切り替わる、というのは、やるのも見るのも楽しい気がするのだ。
たとえば、こういうことがおきるかもしれない。乗っている電車が停車駅に停まる。すると、乗り込んで来る人たちが、一斉にウィンクをする。「ちょっと暇」になる瞬間、人はウィンクをするようになるわけだ。もしかしたら美女が男に向かってウィンクをするとき(そんなの現実には見たことないけど)、その美女は二重の意味で男を試していることになるのかもしれない。
もうひとつは、コンタクトレンズ型だと、傍目には、拡張現実を見ているように見えないということだ。おそらく、メガネ型が浸透した世界では、メガネをかけている人とかけていない人の意味がぜんぜん違うものになってしまうだろう。すると、メガネをかけている人に見られると自分の情報をつぶさに読み込まれているような気がして、なにかいい気がしない、ということが起こりうる。その点、コンタクトレンズ型は見た目には変わらない。
これはすごいことになりそうな気がしている。なにせその人が何を見ているのか、さっぱりわからないのだ。隣にいる人、目の前の人、その人は同じ景色を見ているようで、まったく(とは言わないまでもその人の嗜好にあわせてカスタマイズされた)景色を見ていることになる。たとえば、マーケターは目に入る商品の情報を浴びるように見続けるかもしれないし、キャリアウーマン風の女性が実は「ウェブカレ」の拡張現実版に見とれている、なんてこともあるかもしれない。今のニコ動ユーザーに近い人たちは、「現実」につけられたコメントを見て、にやにやしているかもしれないし、突然「ちょwww」と言いながら街中で笑い出す人が出始めるかもしれない。うっかり神コメントが目に入ってしまい本当にコーラを噴出す人が出てきたら、それはちょっと嬉しい。
もちろん、拡張現実がなくても、こういった妄想は皆日ごろから行っていることだとは思う。電車の中でちょっとした妄想ににやにやしそうになって、あわててしかめ面をしたりコンタクトがずれたふりをして誤魔化そうとしたりしている私のような人間は山ほどいるのだと思う。
ただ、拡張現実の世界が開けると、「にやにや」はあたりまえのことになるかもしれない。妄想をしてうっかり笑いそうになったとして、それを止める必要はなくなるかもしれない。なにせ妄想は共有化されるのだ。電車の中では、それぞれがそれぞれの瞳に映る世界に笑い、あるいは泣く。「電車の中で化粧」どころの騒ぎではなくなる。そんな世界がディストピアなのか、それともユートピアなのか、それはさっぱりわからない。
ただ、電車の中のにやつきには、立派な理由ができる。これにはもう、にやにやが止まらない。それは確かだ。確かなのだ。
ヨーカドーの裏側
2008年10月30日 / その他
最近寒くなってきて、家の目の前にある公園からホームレスがさっぱりといなくなった。
今朝、「おおこの空気、冬の気配」とか思いながらマンションを出ると、公園のベンチはついに空っぽだった。
こういうときはどこに寝泊まりすることになっているのだろう、と考えてみたけど意外とわからない。
はて、公園のベンチで寝泊まりしてて段ボールハウスには住んでない人、は冬はどうしているのだろう。
会社でこっそりグーグルに聞いてみたけど、なんだか素っ気なかった。
そしてそんなことを考えていたら、ふと思い出した。
4、5年ぐらい前の夏の日のこと。
当時私はまだ大学生で、レポート用に地元の図書館で本を大量に借りたあと、待ち合わせか何かで時間があったのでさっそく本を読もうと入り口わきのロビーのイスに腰を下ろすと、隅に二人の中年男性が座っているのに気づいた。
二人は何やら仲良さそうに話していて、一人は短髪の白髪頭に地味な色のポロシャツ・スラックス姿で60代ぐらい、もう一人は、服装は忘れたけどやや若め、40代ぐらいだった。
二人は姿勢よく座っていて、夏休み時期とはいえ昼間にこんなところで大人の男が楽しそうに話しているのはなんだか不思議だった。
ロビーには私とその中年男性二人だけで、二人の声もそこまで小さくはなかったので、本を読もうにもついつい話の内容を聞いてしまい、私はようやく理解した。
二人はホームレスだった。
白髪の男性は先輩ホームレスで、若い方は新米ホームレスだった。
「おまえはまだ若いから、やりようによっては戻れる」「いえいえ、○○さんもまだまだ」といったやりとりから、そう判断できた。
新米さんの恐縮具合からして、白髪の方はこのあたりのホームレスの最古参のようだった。
こっそりと聞き耳を立てていると、話題は食事とか寝床のことに移っていった。
「あのヨーカドーの裏のあたりはなかなかいいぞ」
「え、あそこって行けるんですか!?」
「大丈夫、あそこはこのへんでは一番だから」
細かい部分は覚えていないけど、「ヨーカドーの裏が一番いい」という言葉はなかなか新鮮だった。
そのヨーカドーの裏にはすぐ別の建物が面していて、一度も回ったことがなかった。わりとなじみのあるところだったけど、「その裏」なんてちっとも知らなかった。
覚えていることといえばこれくらいなのだけれど、正直なところ、やけにのどかな光景に思えて、とにかく面白かった。大変そうだけど、なんだか呑気だなおい、とついツッコミを入れたくなってしまったのだった。
ただ、今振り返ると、こののどかさは、彼らの服装や姿勢に由るところが大きいような気がする。
特に先輩ホームレスの方は背筋もピンと伸びていて、当時はそれがある種の矜持のようなものにさえ感じられたのだけど、図書館とホームレスのことであれやこれやと喧しい今考えてみると、あのきちんとした身なりや姿勢の良さやは彼らなりの防衛策だったのかと、そんなふうに思えてしまうのだ。
そして、こんなことを考えてひとつ気づいたのは、まだヨーカドーの裏側を覗いていないということだった。
今朝、「おおこの空気、冬の気配」とか思いながらマンションを出ると、公園のベンチはついに空っぽだった。
こういうときはどこに寝泊まりすることになっているのだろう、と考えてみたけど意外とわからない。
はて、公園のベンチで寝泊まりしてて段ボールハウスには住んでない人、は冬はどうしているのだろう。
会社でこっそりグーグルに聞いてみたけど、なんだか素っ気なかった。
そしてそんなことを考えていたら、ふと思い出した。
4、5年ぐらい前の夏の日のこと。
当時私はまだ大学生で、レポート用に地元の図書館で本を大量に借りたあと、待ち合わせか何かで時間があったのでさっそく本を読もうと入り口わきのロビーのイスに腰を下ろすと、隅に二人の中年男性が座っているのに気づいた。
二人は何やら仲良さそうに話していて、一人は短髪の白髪頭に地味な色のポロシャツ・スラックス姿で60代ぐらい、もう一人は、服装は忘れたけどやや若め、40代ぐらいだった。
二人は姿勢よく座っていて、夏休み時期とはいえ昼間にこんなところで大人の男が楽しそうに話しているのはなんだか不思議だった。
ロビーには私とその中年男性二人だけで、二人の声もそこまで小さくはなかったので、本を読もうにもついつい話の内容を聞いてしまい、私はようやく理解した。
二人はホームレスだった。
白髪の男性は先輩ホームレスで、若い方は新米ホームレスだった。
「おまえはまだ若いから、やりようによっては戻れる」「いえいえ、○○さんもまだまだ」といったやりとりから、そう判断できた。
新米さんの恐縮具合からして、白髪の方はこのあたりのホームレスの最古参のようだった。
こっそりと聞き耳を立てていると、話題は食事とか寝床のことに移っていった。
「あのヨーカドーの裏のあたりはなかなかいいぞ」
「え、あそこって行けるんですか!?」
「大丈夫、あそこはこのへんでは一番だから」
細かい部分は覚えていないけど、「ヨーカドーの裏が一番いい」という言葉はなかなか新鮮だった。
そのヨーカドーの裏にはすぐ別の建物が面していて、一度も回ったことがなかった。わりとなじみのあるところだったけど、「その裏」なんてちっとも知らなかった。
覚えていることといえばこれくらいなのだけれど、正直なところ、やけにのどかな光景に思えて、とにかく面白かった。大変そうだけど、なんだか呑気だなおい、とついツッコミを入れたくなってしまったのだった。
ただ、今振り返ると、こののどかさは、彼らの服装や姿勢に由るところが大きいような気がする。
特に先輩ホームレスの方は背筋もピンと伸びていて、当時はそれがある種の矜持のようなものにさえ感じられたのだけど、図書館とホームレスのことであれやこれやと喧しい今考えてみると、あのきちんとした身なりや姿勢の良さやは彼らなりの防衛策だったのかと、そんなふうに思えてしまうのだ。
そして、こんなことを考えてひとつ気づいたのは、まだヨーカドーの裏側を覗いていないということだった。
DON'T SMOKE! YOU ZOMBIE!!!
2008年09月25日 / その他
先日夜遅く、帰りがけにタバコを買いにコンビニに寄ったときのこと。
タバコ以外は特に買うものもなかったので入ってすぐに列に並んでいると、前方に並んでいたギャルがキャハキャハしているのが聞こえてきた。
キャハキャハの理由は、どうも「クール4箱」と店員に注文したことによるらしい。
私のすぐ前にはそのギャルの友だち(最初のギャルをギャルAとすればギャルB)もいて、「よんっ!」と言ってやはりキャハキャハしていたからだ。
私は友だちの友だちはギャルかいな、などとうすら寒いことを思い浮かべつついつのまにか二人のキャハキャハに引き込まれていた。すると、「お次のお客さま」と呼ばれた友だちのギャルBはギャルAのすぐ隣りのレジにすたすたと向かうと、さらりとこう言ったのだった。
「クール5箱」
とたんに金額にして1500円を越える戦いが始まった。
キャハキャハのグルーヴが増す。
「出まんした出まんした! クール5箱! クール5箱でござぁい! さあさあどなたさんこなたさん、もう一声かけちゃりまへら!」
と出鱈目も承知で場を仕切りたくなってくる。
さて、ここでくたばるギャルAぢゃない。夜会巻きの威力はまだまだこれから。そう、ギャルAは勢いも髪の毛もしっかりちゃっかり巻き返してきたのだ。
ギャルBに頭一つ抜かれたギャルAは、会計に移ろうとしていた店員を軽く制止して、「あすいません、クールあと2つ追加で」と言ってのける。
まったくお腹から声の出ていない奇跡のゆる声で、ギャルAはクールを2箱、上乗せしてみせたのだ!
こうして、キャハキャハはクライマックスに達する。
もうこうなると勝敗なんて関係ない。いつのまにかどこかに消えている。
最後はお決まりの「ちょー受けるんだけど」。締めの台詞で大団円。
二人は颯爽と、特に遊ぶ場所もない夜の郊外に、繰り出していく。
キャハキャハはとまらない。誰にもとめられない。
am/pmから公園を通り抜けて、やがては町を包み込み、日本を、世界をーー
■
と、ここで思わぬ見間違えをしてヒヤリとする。
ギャルたちの去ったあと、何気なく見やったレジの奥にこう書いてあった気がしたのだ。
「生存確認のため身分証のご提示をお願いすることがあります」
もちろん、見間違えだ。
ただどうだろう。もし生存確認をしなければならないのだとしたら、どうだろう。
私はそんなものを持ってはいない。
保険証はあるが、ALIVE / DEADなんて欄はない。そもそもレジの前に立って注文をしているだけでは生きていると言えないのなら、一体どうしたらいいというのだ。
もし仮に町にゾンビがうろついているのだとしても、しかしそれなら店の入り口に書いてあるほうが自然だ。
となると、こういうことになるだろう。
この町では、ゾンビと人間が共存している、と。
そして、タバコ購入の際に生存確認証が居るということは、ゾンビはタバコを吸えない、ということになる。
なんと! これは知らなかった! ゾンビはタバコを吸えないのだ!
いやしかし、吸ったらどうだというのだろう。なにせ、既に死んでいるからのゾンビだ。そこは譲れない。
もしかしたら、タバコを吸うことを緩慢な自殺と見なす人たちの思惑が働いているのかもしれない。
すでに死んでるゾンビに吸わせるタバコなどない、と、そいういうことなのかもしれない。
とまれ、いずれにせよ、ゾンビはタバコを吸うことができない。
目から鱗が落ちる思いだ。
と、さらにここで気になることが出てくる。
ゾンビと人間の見た目上の違いはどこにあるのだろう。
さきほどのギャルはギャルたちは血色もよく、身分証の提示を求められることはなかった。
もしかしたら顔色が悪いと、ゾンビと見なされるのだろうか。しかしそれも決定打とは言えまい。
となると、店員はどこでゾンビと人間の区別を図っているのだろう。
もしかしたら、その区別はものすごく曖昧で、恣意的なものなのかもしれない。店員の気分しだいで、人はゾンビにも人間にもなってしまうのかもしれない。
だとしたら、店員という人たちはなんという権力をもっているのだろう。夜遅くまで立ちっぱなしで笑顔を絶やさず「いらっしゃいませ、ありがとうございます」を繰り返し続ける、こんな人の良さそうな老夫婦だというのに、こんなに色白のガリガリのバイト君だというのに、客と向かい合うたびに、人の生き死にを裁きわけているのだ。
人のまさに一生を左右する権限を保有し、それを適当に行使して、悲しい顔ひとつ見せない。死の宣告は、オートマチック。彼らはもうマッシーンになってしまったのだ。
消費者優位、の世界はもうどこかに消えてしまった。いや、そんなものはそもそそも初めからなかったのかもしれない。どっちにしたって、感情を持たない殺人マッシーンと化したコンビニ店員の前で、お客様は神さまなんて、ものすごくばからしい言葉だ。
タバコを欲してコンビニの列にこうして並ぶ。
それは、判決を先走って聞きに来てしまった人たちの、愚かな行為なのだ。
■
「お次お待ちのお客さま」
さて、私の番がやってきた。
何を言っても仕方ない。
私は、覚悟してマルボロを頼む。
そして――
今、にやにやしながらこれを書いていたわけだ。
タバコ以外は特に買うものもなかったので入ってすぐに列に並んでいると、前方に並んでいたギャルがキャハキャハしているのが聞こえてきた。
キャハキャハの理由は、どうも「クール4箱」と店員に注文したことによるらしい。
私のすぐ前にはそのギャルの友だち(最初のギャルをギャルAとすればギャルB)もいて、「よんっ!」と言ってやはりキャハキャハしていたからだ。
私は友だちの友だちはギャルかいな、などとうすら寒いことを思い浮かべつついつのまにか二人のキャハキャハに引き込まれていた。すると、「お次のお客さま」と呼ばれた友だちのギャルBはギャルAのすぐ隣りのレジにすたすたと向かうと、さらりとこう言ったのだった。
「クール5箱」
とたんに金額にして1500円を越える戦いが始まった。
キャハキャハのグルーヴが増す。
「出まんした出まんした! クール5箱! クール5箱でござぁい! さあさあどなたさんこなたさん、もう一声かけちゃりまへら!」
と出鱈目も承知で場を仕切りたくなってくる。
さて、ここでくたばるギャルAぢゃない。夜会巻きの威力はまだまだこれから。そう、ギャルAは勢いも髪の毛もしっかりちゃっかり巻き返してきたのだ。
ギャルBに頭一つ抜かれたギャルAは、会計に移ろうとしていた店員を軽く制止して、「あすいません、クールあと2つ追加で」と言ってのける。
まったくお腹から声の出ていない奇跡のゆる声で、ギャルAはクールを2箱、上乗せしてみせたのだ!
こうして、キャハキャハはクライマックスに達する。
もうこうなると勝敗なんて関係ない。いつのまにかどこかに消えている。
最後はお決まりの「ちょー受けるんだけど」。締めの台詞で大団円。
二人は颯爽と、特に遊ぶ場所もない夜の郊外に、繰り出していく。
キャハキャハはとまらない。誰にもとめられない。
am/pmから公園を通り抜けて、やがては町を包み込み、日本を、世界をーー
■
と、ここで思わぬ見間違えをしてヒヤリとする。
ギャルたちの去ったあと、何気なく見やったレジの奥にこう書いてあった気がしたのだ。
「生存確認のため身分証のご提示をお願いすることがあります」
もちろん、見間違えだ。
ただどうだろう。もし生存確認をしなければならないのだとしたら、どうだろう。
私はそんなものを持ってはいない。
保険証はあるが、ALIVE / DEADなんて欄はない。そもそもレジの前に立って注文をしているだけでは生きていると言えないのなら、一体どうしたらいいというのだ。
もし仮に町にゾンビがうろついているのだとしても、しかしそれなら店の入り口に書いてあるほうが自然だ。
となると、こういうことになるだろう。
この町では、ゾンビと人間が共存している、と。
そして、タバコ購入の際に生存確認証が居るということは、ゾンビはタバコを吸えない、ということになる。
なんと! これは知らなかった! ゾンビはタバコを吸えないのだ!
いやしかし、吸ったらどうだというのだろう。なにせ、既に死んでいるからのゾンビだ。そこは譲れない。
もしかしたら、タバコを吸うことを緩慢な自殺と見なす人たちの思惑が働いているのかもしれない。
すでに死んでるゾンビに吸わせるタバコなどない、と、そいういうことなのかもしれない。
とまれ、いずれにせよ、ゾンビはタバコを吸うことができない。
目から鱗が落ちる思いだ。
と、さらにここで気になることが出てくる。
ゾンビと人間の見た目上の違いはどこにあるのだろう。
さきほどのギャルはギャルたちは血色もよく、身分証の提示を求められることはなかった。
もしかしたら顔色が悪いと、ゾンビと見なされるのだろうか。しかしそれも決定打とは言えまい。
となると、店員はどこでゾンビと人間の区別を図っているのだろう。
もしかしたら、その区別はものすごく曖昧で、恣意的なものなのかもしれない。店員の気分しだいで、人はゾンビにも人間にもなってしまうのかもしれない。
だとしたら、店員という人たちはなんという権力をもっているのだろう。夜遅くまで立ちっぱなしで笑顔を絶やさず「いらっしゃいませ、ありがとうございます」を繰り返し続ける、こんな人の良さそうな老夫婦だというのに、こんなに色白のガリガリのバイト君だというのに、客と向かい合うたびに、人の生き死にを裁きわけているのだ。
人のまさに一生を左右する権限を保有し、それを適当に行使して、悲しい顔ひとつ見せない。死の宣告は、オートマチック。彼らはもうマッシーンになってしまったのだ。
消費者優位、の世界はもうどこかに消えてしまった。いや、そんなものはそもそそも初めからなかったのかもしれない。どっちにしたって、感情を持たない殺人マッシーンと化したコンビニ店員の前で、お客様は神さまなんて、ものすごくばからしい言葉だ。
タバコを欲してコンビニの列にこうして並ぶ。
それは、判決を先走って聞きに来てしまった人たちの、愚かな行為なのだ。
■
「お次お待ちのお客さま」
さて、私の番がやってきた。
何を言っても仕方ない。
私は、覚悟してマルボロを頼む。
そして――
今、にやにやしながらこれを書いていたわけだ。
尻に力と言うのなら
2008年09月23日 / その他
なんとか力っていうのが、最近やたらと流行っている。
なにか語尾に加えれば、ことごとくそれっぽい言葉になってしまう例のアレ。実に便利だ。
人間力に自分力に、未来力。鈍感力、なんて本も流行ったんだったか。
みんなみんな、お尻に力を入れている。なんだか、おならが出てしまいそうだ。
冗談はさておき、流行っているわりには、なんでもかんでも力を付け加えている、ってわけでもない。
なにか中途半端な印象がある。
たとえば、私はいまデニーズにいて、そこからこのエントリを書いているわけだけど、もちろん、デニーズのお尻に力なんて書かれてないし、忙しそうにステップを踏んで厨房に入る店員の名札に、力くん、ってあるわけでもない。
どうにも、「尻に力」ブームは流行としては不徹底、というか、尻で言うなら尻すぼみな印象が否めない。
もちろん、デニーズは今価格改定直後で忙しいだろうから、仕方ない面もあるのだと思う。
メニューひとつひとつのお尻に力を加えていったら、朝になってしまう。
いや、朝までかければできるとしたって、24時間営業のデニーズにはそんな暇なんてないのだ。
じゃあ、何の尻に力を加えれば一番いいのだろう。
と、考えて、ぱっとひらめいた。
そうだ、自分の名前につければいいじゃないか、と。
merio力。
こ、これは・・・!
なんだかわくわくしてくる。ちょっとびっくりするようなことが起きそうな気がしてくる。
そう、いままで定性的な言葉で相対的に語られてきたmerioの能力が、突然、定量的に数値化されてエクセルのちっちゃなセルに容赦なくぶちこまれたような、そんな気がしてくるのだ。
いままでだったら、
「merio、最近どうなの?」
「ぼちぼち、ですね」
といった会話が、
「merio力、最近どうなの?」
「46%が稼動中です」
といった具合に、一気に素敵なものになってしまう。
ただの喫煙室のしょうもない会話が、一大国家プロジェクトの極秘ラボラトリーで、博士が助手の一人に現状の報告を求めるような、そんな会話になってしまうのだ!!
というように、名前のお尻に力をつけるのは、なかなかいいのではないかという気がしてきた。
ほかにも学校での出欠確認なんて尻の力でこんなふうに変わってしまう。
「遠山力」
「はい、ジャスト60%」
「佐藤力」
「はい、42%」
「低めだなー、清水力]
「……」
「お? 清水力は?」
「先生、清水力は、今エンジンを停止しています」
「なんだ、おい、誤作動防止装置を解除して燃料投下してやれ」
「了解しました」
・・・
「あれ・・・?」
「どうした」
「……し、清水力、フルスロットル!」
「ほう」
「毎秒1400mの加速で体内をエネルギーが循環中!」
「熱い! 清水力が熱い! 37.1、37.5、38.2、38.7、39.6……ボウっ(とスカウターが壊れる)」
「先生! 清水力が…!」
「むう」
なんだか書いているうちによくわからなくなってきた。
ともあれ、要は、よくわかっている具体的なもののお尻に力をつけくわえると、なんだか定量的に表現しなければいけない気がする、ということだ。
こう、心に秘めた大事な文学のロマンをざくざくと数字で削られていくような、そんな感覚があるのかもしれない。
いや、そんなことはないかもしれない。
ようするに、と何度も言うけれども、ようするに何が言いたいかといえば、お尻に力を付け加えられた当の言葉のことを、だあれもわかっちゃいない、ってことだ。
自分の名前みたいに多少は具体的な言葉の尻に力を加えるならまだしも、人間、自分、未来、だなんて!
へそで茶を沸かすまえに、尻で地球を救えてしまう。
それぐらいに、こういった抽象的な言葉の数々のことなんて、誰も、これっぽっちもわからないのだろう。だからお尻に力を付け加えて、それっぽくおしゃれ、尻に力でオーガニックなカフェでロハスなランチ、そんな具合になってしまうのだろう。
さて。
そういうわけで、さっきから『まじかるタルルートくん』の「原子力(はらこつとむ)」のことで頭がいっぱいだ。
なにか語尾に加えれば、ことごとくそれっぽい言葉になってしまう例のアレ。実に便利だ。
人間力に自分力に、未来力。鈍感力、なんて本も流行ったんだったか。
みんなみんな、お尻に力を入れている。なんだか、おならが出てしまいそうだ。
冗談はさておき、流行っているわりには、なんでもかんでも力を付け加えている、ってわけでもない。
なにか中途半端な印象がある。
たとえば、私はいまデニーズにいて、そこからこのエントリを書いているわけだけど、もちろん、デニーズのお尻に力なんて書かれてないし、忙しそうにステップを踏んで厨房に入る店員の名札に、力くん、ってあるわけでもない。
どうにも、「尻に力」ブームは流行としては不徹底、というか、尻で言うなら尻すぼみな印象が否めない。
もちろん、デニーズは今価格改定直後で忙しいだろうから、仕方ない面もあるのだと思う。
メニューひとつひとつのお尻に力を加えていったら、朝になってしまう。
いや、朝までかければできるとしたって、24時間営業のデニーズにはそんな暇なんてないのだ。
じゃあ、何の尻に力を加えれば一番いいのだろう。
と、考えて、ぱっとひらめいた。
そうだ、自分の名前につければいいじゃないか、と。
merio力。
こ、これは・・・!
なんだかわくわくしてくる。ちょっとびっくりするようなことが起きそうな気がしてくる。
そう、いままで定性的な言葉で相対的に語られてきたmerioの能力が、突然、定量的に数値化されてエクセルのちっちゃなセルに容赦なくぶちこまれたような、そんな気がしてくるのだ。
いままでだったら、
「merio、最近どうなの?」
「ぼちぼち、ですね」
といった会話が、
「merio力、最近どうなの?」
「46%が稼動中です」
といった具合に、一気に素敵なものになってしまう。
ただの喫煙室のしょうもない会話が、一大国家プロジェクトの極秘ラボラトリーで、博士が助手の一人に現状の報告を求めるような、そんな会話になってしまうのだ!!
というように、名前のお尻に力をつけるのは、なかなかいいのではないかという気がしてきた。
ほかにも学校での出欠確認なんて尻の力でこんなふうに変わってしまう。
「遠山力」
「はい、ジャスト60%」
「佐藤力」
「はい、42%」
「低めだなー、清水力]
「……」
「お? 清水力は?」
「先生、清水力は、今エンジンを停止しています」
「なんだ、おい、誤作動防止装置を解除して燃料投下してやれ」
「了解しました」
・・・
「あれ・・・?」
「どうした」
「……し、清水力、フルスロットル!」
「ほう」
「毎秒1400mの加速で体内をエネルギーが循環中!」
「熱い! 清水力が熱い! 37.1、37.5、38.2、38.7、39.6……ボウっ(とスカウターが壊れる)」
「先生! 清水力が…!」
「むう」
なんだか書いているうちによくわからなくなってきた。
ともあれ、要は、よくわかっている具体的なもののお尻に力をつけくわえると、なんだか定量的に表現しなければいけない気がする、ということだ。
こう、心に秘めた大事な文学のロマンをざくざくと数字で削られていくような、そんな感覚があるのかもしれない。
いや、そんなことはないかもしれない。
ようするに、と何度も言うけれども、ようするに何が言いたいかといえば、お尻に力を付け加えられた当の言葉のことを、だあれもわかっちゃいない、ってことだ。
自分の名前みたいに多少は具体的な言葉の尻に力を加えるならまだしも、人間、自分、未来、だなんて!
へそで茶を沸かすまえに、尻で地球を救えてしまう。
それぐらいに、こういった抽象的な言葉の数々のことなんて、誰も、これっぽっちもわからないのだろう。だからお尻に力を付け加えて、それっぽくおしゃれ、尻に力でオーガニックなカフェでロハスなランチ、そんな具合になってしまうのだろう。
さて。
そういうわけで、さっきから『まじかるタルルートくん』の「原子力(はらこつとむ)」のことで頭がいっぱいだ。
もう一度、においのために
2008年09月05日 / その他
我が家のタオルは臭い。ひとつ残らずにおう。
もちろんしっかり洗っている。洗っているのは私ではないけど、しっかりタオルは洗われている。
臭いのはタオルだけだ。本当に、なぜか、タオルだけがことごとく臭い。
あの生乾きの、いやなにおいがする。バケツの縁にほったらかしにされた雑巾の、触った手にまで感染する、嗅いだ瞬間顔を背けたくなるような、例のアレだ。
生乾きのにおい、というくらいだから、部屋干しのせい、のようにも思える。いや、そう、基本部屋干しなのだ。それのせいかもしれない。いや、部屋干しのせいに違いない。
そんなふうに、思っていたころが懐かしい。
外に干してもタオルはしっかりにおった。ぷんぷん、というよりは、むわーん、とにおったのだ。
こうなったらもうタオルの攻勢はとまらない。わきを通り過ぎるたびに、タオルが教室の隅の用具入れのなかにじっと身を潜めるぼろ雑巾に見えてくる。うっかり入浴後にそいつで体を拭いてしまった日には、つい目をぎゅっとつぶって、しまったやられたと地団駄を踏みながら、それでいて不思議に爽快な気分になってしまう。体操着に着替えて、たたたたっと床の枡目に沿って雑巾がけをしたくなる。もしかしたらティーンズスピリットは生乾きの雑巾のにおいなのかもしれない。そんなふうにさえ思えてくる。
それにしてもなぜタオルだけなのだろう。ほかの洗濯物は一切におわないのに、なぜかくもタオルだけが次々ににおうのだろう。もう、以前我が家に住んでいた人が濡れたタオルで死んだとか、そういうふうに思ってしまう。いやそういうふうにしか思ってやらない。
ついうっかりタオルを濡れたままほったらかしにしていたところ、そのにおいを嗅いで、うへ、っと顔を背けた瞬間、濡れた床に足を滑らせて・・・! とかそんな具合だ。この際豆腐の角でも、曙のお腹でもなんでもいい。きっとそういうところに後頭部をぶつけて、持病の結核で亡くなったのだろう。死因は関係ない。タオルだ。そう、きっかけはすべてあのタオルなのだ。そして、死んだのは色白の長い黒髪の女だ。
■
ところで、先日仕事中に、ぽろりと鼻くそが手の甲に落ちてきて驚いたことがある。
最初は何かわからなかったが、それが鼻腔の感覚から言って鼻くそに違いない、と気づいたときは、もう本当に、腰を抜かした。その鼻くそは通常の粘度をもたずに、ころっころに固まってた。映画『ハプニング』を見た直後だったので、ある日突然理由もわからずに人々の鼻くそが固まって落ち始める、というほんの少しだけ怖い話を思いついてしまうくらいだった。
鼻くそが固まって落ちてきた理由は、よくわからない。わかるわけもない。
ただ、タオルのにおいに苦しみ楽しみ自己を憐れみ感じ入るいま、私はこう思う。
鼻くそが臭くなくてよかった、と。
もし鼻くそが臭かったら、どんな世界になるだろう。渋谷の雑踏でも丸の内のオフィス街でもいい。突如「ハプニング」が起こり、皆の鼻くそが一斉に臭くなり始めたら、どんな光景が現れるだろう。
きっと皆、においの元を探してあたりを見回し始めるのだろう。原因が自分の鼻くそだということも知らずに。犯人探し出しがエスカレートすることもあるだろう。疑心暗鬼の集団ヒステリーだ。見えない敵は怖い怖い。あの汗っかき、あの浮浪者、あの野良犬・・・滑稽、滑稽、なんて人間! そんなお決まりのパターンだ。
ところで、鼻をつまむ者も出てくるだろう。そしたらもうそれは悲劇だ。鼻をつまむという行為は、臭さの原因を鼻の粘膜にぐりり刷り込むことにほかならないのだから。人々が鼻をつまんだ直後に、あまりの臭さに身悶えていく。ちょっとそんな光景を見たくなってきた。
それにしても、「鼻くそ」と名づけた人は誰だろう。鼻のなかでごみをかき集めながらそれでいてにおいを一切放たないその優しさに、ずいぶんと失礼な物言いだ。
もっと別の言い方を考えたほうがいい。そう、鼻くそには別名が必要なのだ。
どんな呼び名がいいだろう。鼻腔を「鼻やしき」としてそこで遊ぶ子供たち、と捉えるのはどうだろう。どうだろう、と言っておきながらなんだが、これはあまりに冗長だ。
では、だんご鼻の逆、鼻だんご、なんてどうだろう。これはいいかもしれない。鼻水に関しては、鼻汁、という呼び名があるくらいだから、鼻だんごに鼻汁、悪くない。しっくりくる。鼻水戸黄門御一行が立ち寄りそうなお鼻茶屋が目に浮かぶ。鼻野鳥のさえずりに、鼻黄門様の笑い声。そこに鼻娘が鼻だんごと鼻汁を運んでくる。のどかな鼻の午後だ。
■
ところで私はいま目やに、いや、目くそをとって嗅いでみるか迷っている。
やおいが流行るならにおいだって、と思いついてもいる。
けれど正直なところあまり美しい話題だとは思わないので、この辺でやめる。
もちろんしっかり洗っている。洗っているのは私ではないけど、しっかりタオルは洗われている。
臭いのはタオルだけだ。本当に、なぜか、タオルだけがことごとく臭い。
あの生乾きの、いやなにおいがする。バケツの縁にほったらかしにされた雑巾の、触った手にまで感染する、嗅いだ瞬間顔を背けたくなるような、例のアレだ。
生乾きのにおい、というくらいだから、部屋干しのせい、のようにも思える。いや、そう、基本部屋干しなのだ。それのせいかもしれない。いや、部屋干しのせいに違いない。
そんなふうに、思っていたころが懐かしい。
外に干してもタオルはしっかりにおった。ぷんぷん、というよりは、むわーん、とにおったのだ。
こうなったらもうタオルの攻勢はとまらない。わきを通り過ぎるたびに、タオルが教室の隅の用具入れのなかにじっと身を潜めるぼろ雑巾に見えてくる。うっかり入浴後にそいつで体を拭いてしまった日には、つい目をぎゅっとつぶって、しまったやられたと地団駄を踏みながら、それでいて不思議に爽快な気分になってしまう。体操着に着替えて、たたたたっと床の枡目に沿って雑巾がけをしたくなる。もしかしたらティーンズスピリットは生乾きの雑巾のにおいなのかもしれない。そんなふうにさえ思えてくる。
それにしてもなぜタオルだけなのだろう。ほかの洗濯物は一切におわないのに、なぜかくもタオルだけが次々ににおうのだろう。もう、以前我が家に住んでいた人が濡れたタオルで死んだとか、そういうふうに思ってしまう。いやそういうふうにしか思ってやらない。
ついうっかりタオルを濡れたままほったらかしにしていたところ、そのにおいを嗅いで、うへ、っと顔を背けた瞬間、濡れた床に足を滑らせて・・・! とかそんな具合だ。この際豆腐の角でも、曙のお腹でもなんでもいい。きっとそういうところに後頭部をぶつけて、持病の結核で亡くなったのだろう。死因は関係ない。タオルだ。そう、きっかけはすべてあのタオルなのだ。そして、死んだのは色白の長い黒髪の女だ。
■
ところで、先日仕事中に、ぽろりと鼻くそが手の甲に落ちてきて驚いたことがある。
最初は何かわからなかったが、それが鼻腔の感覚から言って鼻くそに違いない、と気づいたときは、もう本当に、腰を抜かした。その鼻くそは通常の粘度をもたずに、ころっころに固まってた。映画『ハプニング』を見た直後だったので、ある日突然理由もわからずに人々の鼻くそが固まって落ち始める、というほんの少しだけ怖い話を思いついてしまうくらいだった。
鼻くそが固まって落ちてきた理由は、よくわからない。わかるわけもない。
ただ、タオルのにおいに苦しみ楽しみ自己を憐れみ感じ入るいま、私はこう思う。
鼻くそが臭くなくてよかった、と。
もし鼻くそが臭かったら、どんな世界になるだろう。渋谷の雑踏でも丸の内のオフィス街でもいい。突如「ハプニング」が起こり、皆の鼻くそが一斉に臭くなり始めたら、どんな光景が現れるだろう。
きっと皆、においの元を探してあたりを見回し始めるのだろう。原因が自分の鼻くそだということも知らずに。犯人探し出しがエスカレートすることもあるだろう。疑心暗鬼の集団ヒステリーだ。見えない敵は怖い怖い。あの汗っかき、あの浮浪者、あの野良犬・・・滑稽、滑稽、なんて人間! そんなお決まりのパターンだ。
ところで、鼻をつまむ者も出てくるだろう。そしたらもうそれは悲劇だ。鼻をつまむという行為は、臭さの原因を鼻の粘膜にぐりり刷り込むことにほかならないのだから。人々が鼻をつまんだ直後に、あまりの臭さに身悶えていく。ちょっとそんな光景を見たくなってきた。
それにしても、「鼻くそ」と名づけた人は誰だろう。鼻のなかでごみをかき集めながらそれでいてにおいを一切放たないその優しさに、ずいぶんと失礼な物言いだ。
もっと別の言い方を考えたほうがいい。そう、鼻くそには別名が必要なのだ。
どんな呼び名がいいだろう。鼻腔を「鼻やしき」としてそこで遊ぶ子供たち、と捉えるのはどうだろう。どうだろう、と言っておきながらなんだが、これはあまりに冗長だ。
では、だんご鼻の逆、鼻だんご、なんてどうだろう。これはいいかもしれない。鼻水に関しては、鼻汁、という呼び名があるくらいだから、鼻だんごに鼻汁、悪くない。しっくりくる。鼻水戸黄門御一行が立ち寄りそうなお鼻茶屋が目に浮かぶ。鼻野鳥のさえずりに、鼻黄門様の笑い声。そこに鼻娘が鼻だんごと鼻汁を運んでくる。のどかな鼻の午後だ。
■
ところで私はいま目やに、いや、目くそをとって嗅いでみるか迷っている。
やおいが流行るならにおいだって、と思いついてもいる。
けれど正直なところあまり美しい話題だとは思わないので、この辺でやめる。
朝日のあたる家
2008年08月26日 / その他
朝家を出るときに郵便受けから日経を取ってカバンに入れます。
翌朝、家を出るときに郵便受けから日経を取りますが、カバンのなかには昨日の日経が一度も読まずに入ったままなのでそれを靴箱の上に置いてからその日の朝刊をカバンに入れます。
この繰り返しです。
毎朝毎朝これを続けます。
するとどうでしょう、この5ヶ月間で日経は一切読まれてないことになります。
…そうなんです、ちっとも読んでないんです!
この5ヶ月間というもの、色気を出して5回ほど中を開いて様子を伺ってみたことを除けば、私はまったく読まないまま日経が再生紙になるのをただただ見守って来たんです! まるで子供を断崖絶壁から突き落した親ライオンのように! 日経は何もしてくれない親を前に、崖から這い上がることをあきらめ、新たな生を得るために工場へ送られていきます。皆肩と肩を寄せて、一つになって押し黙り、けだるい月曜日の朝にひっそりと連れて行かれます。その道は長く、まわりくねって、もう、ドナドナドーナ! なんと哀しい日経新聞!
ところで、日経は会社にしっかり置いてあります。ありました。気づきました。ためしに昼休みにそっと読んでみました。
これは、と思いました。
私は悟ったんです。
家でとるのは朝日にしよう、と。
翌朝、家を出るときに郵便受けから日経を取りますが、カバンのなかには昨日の日経が一度も読まずに入ったままなのでそれを靴箱の上に置いてからその日の朝刊をカバンに入れます。
この繰り返しです。
毎朝毎朝これを続けます。
するとどうでしょう、この5ヶ月間で日経は一切読まれてないことになります。
…そうなんです、ちっとも読んでないんです!
この5ヶ月間というもの、色気を出して5回ほど中を開いて様子を伺ってみたことを除けば、私はまったく読まないまま日経が再生紙になるのをただただ見守って来たんです! まるで子供を断崖絶壁から突き落した親ライオンのように! 日経は何もしてくれない親を前に、崖から這い上がることをあきらめ、新たな生を得るために工場へ送られていきます。皆肩と肩を寄せて、一つになって押し黙り、けだるい月曜日の朝にひっそりと連れて行かれます。その道は長く、まわりくねって、もう、ドナドナドーナ! なんと哀しい日経新聞!
ところで、日経は会社にしっかり置いてあります。ありました。気づきました。ためしに昼休みにそっと読んでみました。
これは、と思いました。
私は悟ったんです。
家でとるのは朝日にしよう、と。
キューバの犬
2008年08月02日 / その他
キューバにはやたらと野犬がいた。
日差しが強いので、たいてい日陰の、冷たい石の床に寝そべっていた。

旧市街に建設中のなんだかわからないけど近代的な建物の入り口付近。

しっかり生きてる。寝てるだけ。

手前はもちろん、奥の門番も暇そう。

革命博物館の入口付近。ここは特に冷たそうだった。
日差しが強いので、たいてい日陰の、冷たい石の床に寝そべっていた。
旧市街に建設中のなんだかわからないけど近代的な建物の入り口付近。
しっかり生きてる。寝てるだけ。
手前はもちろん、奥の門番も暇そう。
革命博物館の入口付近。ここは特に冷たそうだった。
小さな小さなアンブレラ
2008年07月27日 / その他
メキシコとキューバを訪れてきたのだが、メキシコの空港での手荷物検査のとき、機械の中を通過していく私のリュックサックの中身をモニターでチェックしていた兄ちゃんが同僚の女性を呼んで「これはなんだ?」という仕草をしていた。
女職員もよくわからないようで、身体検査のゲートを無事ブザーなしで通過していた私のもとにやってくると、ベルトコンベアで送られてきた私のリュックサックの中身を見せるように言った。
はて、そんな武器にでもなりそうなものを私が持っていたかしら、と思いつつ、これ(パスポート)? これ(本)? これ(デジカメ)? と見せていくと、女職員は、ちょっと待ってこれはなに? と聞く(たぶんそんなことをスペイン語で言っていた)。
女職員が気にとめたのは、そして武器かと思われたものの正体は、水色の折り畳み傘だった。
英語で説明すると、女職員は表情を和らげ、「まあ、これが傘なの?」と驚いていた。
メキシコに折り畳み傘がないのか、思いのほか感動してくれてこちらも少しうれしく感じつつ、その場を後にした。

それから数時間後、ヒューストンでの手荷物検査のとき、先ほど出していた折り畳み傘を今度はリュックの上に置いておいた。
すると、忙しそうにしていた若いアフリカ系の女職員がそれを見つけて、やはり「ちょっと待って! これは何?」と聞いてきた。
折り畳み傘だよ、と説明すると、女職員はきゅんきゅん腰を躍らせて、「これが傘だって言うの!?」とやはりうれしそうに驚いてくれた。
さらにこの女職員は私の折り畳み傘を手に取ると「んもう! 日本のものはなんだってかわいいんだから!」と言い、同僚の女性たちに「見て見て! 信じられる!? これが傘だっていうのよ!」と私の折り畳み傘を見せて回った。
まさかただの折り畳み傘に、10代の少女のように感動してくれるとは思ってもいなかったので、せっかくだし、その場であげてしまえばよかった。大した値段でもなかった。
いやしかし、外国人の女性に何かプレゼントを渡す機会があれば、折り畳み傘は相当喜ばれるのかもしれない。
女職員もよくわからないようで、身体検査のゲートを無事ブザーなしで通過していた私のもとにやってくると、ベルトコンベアで送られてきた私のリュックサックの中身を見せるように言った。
はて、そんな武器にでもなりそうなものを私が持っていたかしら、と思いつつ、これ(パスポート)? これ(本)? これ(デジカメ)? と見せていくと、女職員は、ちょっと待ってこれはなに? と聞く(たぶんそんなことをスペイン語で言っていた)。
女職員が気にとめたのは、そして武器かと思われたものの正体は、水色の折り畳み傘だった。
英語で説明すると、女職員は表情を和らげ、「まあ、これが傘なの?」と驚いていた。
メキシコに折り畳み傘がないのか、思いのほか感動してくれてこちらも少しうれしく感じつつ、その場を後にした。
それから数時間後、ヒューストンでの手荷物検査のとき、先ほど出していた折り畳み傘を今度はリュックの上に置いておいた。
すると、忙しそうにしていた若いアフリカ系の女職員がそれを見つけて、やはり「ちょっと待って! これは何?」と聞いてきた。
折り畳み傘だよ、と説明すると、女職員はきゅんきゅん腰を躍らせて、「これが傘だって言うの!?」とやはりうれしそうに驚いてくれた。
さらにこの女職員は私の折り畳み傘を手に取ると「んもう! 日本のものはなんだってかわいいんだから!」と言い、同僚の女性たちに「見て見て! 信じられる!? これが傘だっていうのよ!」と私の折り畳み傘を見せて回った。
まさかただの折り畳み傘に、10代の少女のように感動してくれるとは思ってもいなかったので、せっかくだし、その場であげてしまえばよかった。大した値段でもなかった。
いやしかし、外国人の女性に何かプレゼントを渡す機会があれば、折り畳み傘は相当喜ばれるのかもしれない。
はてなの消える日
2008年06月30日 / その他
合衆国大統領候補が壇上にあがる。
会衆は立ち上がり、盛大な拍手で出迎える。
そして一瞬の沈黙。
大統領は、雄弁に、語る。
「この世界は、アメリカは、どこへ向かおうとしているのか?」
・・・
土砂降りの雨。
屋上で傘もささずにフェンスをつかみ、遠くを見つめる女。
そこに、男が登場する。
ひょろりとして、甘いマスク。
「ごめん・・・」と男が言う。
女は「ひとつだけ聞かせて・・・」とつぶやくと、
男のほうに振り返り、こう尋ねる。
「あたしって、あなたの、なんだったの・・・?」
・・・
芝生。ホース。家庭用プール。サッカーボール。木漏れ日。笑顔。
幸福な家庭の、幸福な休日。
パパは子供をプールに入れている。
ママはそれをカメラにとってはしゃいでいる。
と、唐突に子供が質問をする。
「ねえ、ボクって、どこから来たの?」
・・・
答えはこちらで。

G先生は何でも知っている、という広告を思いついたんでした。
あるわけないし、やるわけないだろうけど、
はてなが消える、という思いつきが、字面だけみると、妙に意味深だったもので。
会衆は立ち上がり、盛大な拍手で出迎える。
そして一瞬の沈黙。
大統領は、雄弁に、語る。
「この世界は、アメリカは、どこへ向かおうとしているのか?」
・・・
土砂降りの雨。
屋上で傘もささずにフェンスをつかみ、遠くを見つめる女。
そこに、男が登場する。
ひょろりとして、甘いマスク。
「ごめん・・・」と男が言う。
女は「ひとつだけ聞かせて・・・」とつぶやくと、
男のほうに振り返り、こう尋ねる。
「あたしって、あなたの、なんだったの・・・?」
・・・
芝生。ホース。家庭用プール。サッカーボール。木漏れ日。笑顔。
幸福な家庭の、幸福な休日。
パパは子供をプールに入れている。
ママはそれをカメラにとってはしゃいでいる。
と、唐突に子供が質問をする。
「ねえ、ボクって、どこから来たの?」
・・・
答えはこちらで。

G先生は何でも知っている、という広告を思いついたんでした。
あるわけないし、やるわけないだろうけど、
はてなが消える、という思いつきが、字面だけみると、妙に意味深だったもので。
あのレディの季節
2008年05月22日 / その他
彼女はパッションの人。
いつも、愛を求めている。
愛する人への思いをあきらめきれずにいる。
断崖絶壁にたたずみ、遠くを見つめる。
あの人への思いが胸にこみ上げる。
このまま飛び込んでしまいたい、そんな気にもなる。
空にも、海にも、あの人の微笑みが映っている。
ふらふらと、歩を進めてしまう。
彼女が身を空中に投げ出しそうになったそのとき、背後から、彼女を呼ぶ声がする。
振り返ると、一人の男が立っている。
あの人には似てもにつかない、ひどい風采の男。
疲れ切って、肩で息をしている。
ただ、目の奥では何かぎらぎらしたものが光っている。
彼女は彼を知っている。
ベテランの刑事。
そして彼女は――
あの人は彼女を愛してなんかいない。
そんなこと、はじめから分かっていたのに。
男は言う、「もう、終わりにしましょう」と。
しかし、彼女の耳には届かない。
彼女は、彼に興味がない。
と、とたんに熱い感情がこみあげてくる。
彼女は赤く黒いパッションにつき動かされる。
「本気で愛してたのよ!」
彼女は、涙鼻水垂れ流しながら、空に海にと映えるあの人のもとへ飛び去っていく。
■
羽が飛び出す。
重い体をなんとか支えて飛ぶ。
アブラムシがいたので、ちょっとカフェでリフレッシュ。
ここのアブラムシは、おいしい。
甘すぎず、カロリーも控えめ。
でも、どうしてかしら、満足すると、また、あの人のことが、あの人の笑顔が浮かんでくる。
パッションが、体中いたるところからわき上がってくる。
彼女には、もうどうすることもできない。
彼女は、もはや、ここにいることはできない。
動き、彷徨い、放浪するほかない。
こうして、彼女は、再び崖を求めて歩き始める。
あの人の笑顔に、いつかたどり着けることを夢見て。

彼女の名前はレディ・ビートル、好きなアーティストはヤヨイ・クサマ。
彼女の季節に、なってきました。
いつも、愛を求めている。
愛する人への思いをあきらめきれずにいる。
断崖絶壁にたたずみ、遠くを見つめる。
あの人への思いが胸にこみ上げる。
このまま飛び込んでしまいたい、そんな気にもなる。
空にも、海にも、あの人の微笑みが映っている。
ふらふらと、歩を進めてしまう。
彼女が身を空中に投げ出しそうになったそのとき、背後から、彼女を呼ぶ声がする。
振り返ると、一人の男が立っている。
あの人には似てもにつかない、ひどい風采の男。
疲れ切って、肩で息をしている。
ただ、目の奥では何かぎらぎらしたものが光っている。
彼女は彼を知っている。
ベテランの刑事。
そして彼女は――
あの人は彼女を愛してなんかいない。
そんなこと、はじめから分かっていたのに。
男は言う、「もう、終わりにしましょう」と。
しかし、彼女の耳には届かない。
彼女は、彼に興味がない。
と、とたんに熱い感情がこみあげてくる。
彼女は赤く黒いパッションにつき動かされる。
「本気で愛してたのよ!」
彼女は、涙鼻水垂れ流しながら、空に海にと映えるあの人のもとへ飛び去っていく。
■
羽が飛び出す。
重い体をなんとか支えて飛ぶ。
アブラムシがいたので、ちょっとカフェでリフレッシュ。
ここのアブラムシは、おいしい。
甘すぎず、カロリーも控えめ。
でも、どうしてかしら、満足すると、また、あの人のことが、あの人の笑顔が浮かんでくる。
パッションが、体中いたるところからわき上がってくる。
彼女には、もうどうすることもできない。
彼女は、もはや、ここにいることはできない。
動き、彷徨い、放浪するほかない。
こうして、彼女は、再び崖を求めて歩き始める。
あの人の笑顔に、いつかたどり着けることを夢見て。

彼女の名前はレディ・ビートル、好きなアーティストはヤヨイ・クサマ。
彼女の季節に、なってきました。
モシャモシャモギーのひみつ
2008年05月05日 / その他
モシャモシャモギーはすごい。
そこらじゅういたるところから顔を出す。
一定の人たちにとっては、みのもんたとかテレビにでずっぱりの人よりも目にする機会の多い人だ。
そのくらいモシャモシャモギーは、何でもやってる。
尾崎豊からマーケティングまで、
ほんと、モシャモシャモギーは何でも知ってる。
モシャモシャモギーは特に脳のことをよく知ってる。
あたりまえだ。
だって、脳の学者なんだから。
で、脳のことをよく知ってると、ほとんどのことをよく知ってることになる。
そりゃそうだ。
だって、この世はすべてみんなの脳みそに描かれてるんだから。
だからモシャモシャモギーは忙しい。
立ちながらパソコンをいじくり、立ちながらご飯を食べ、時には大好きな芋けんぴを我慢したりする。
モシャモシャモギーは時の人なのだ。
脳のことに詳しい奴で通ってるから、そこらじゅうからお呼びがかかるのだ。
でも、ときどき、そんなモシャモシャモギーも空しくなることがある。
なんでもかんでも、脳、脳、脳、とやってきて、
ふと、俺の魂、ステテコ村の、にんじん便り! とかなんとか叫びたくなることがある。
もう、脳はいい、脳はいいから、愛をください、
そんなふうに、電信柱におでこをくっつけてぶつぶつ言ってしまうことがある。
モシャモシャモギーも人間だもの。
そのくらいの悩みは抱えている。
ただ、モシャモシャモギーは立ち直りが早い。
そこがまたすごいところだ。
くよくよするとモシャモシャモギーは、最後にこう言って前向きになる。
こう言って、心か脳か、そこらへんは忘れておなかのあたりをすっきりさせるのだ。
頭をかきむしりながら、からっと人懐っこい笑顔を浮かべて、モシャモシャモギーは明るくこう言う。
「だあめだ、くぉりぁ」
そこらじゅういたるところから顔を出す。
一定の人たちにとっては、みのもんたとかテレビにでずっぱりの人よりも目にする機会の多い人だ。
そのくらいモシャモシャモギーは、何でもやってる。
尾崎豊からマーケティングまで、
ほんと、モシャモシャモギーは何でも知ってる。
モシャモシャモギーは特に脳のことをよく知ってる。
あたりまえだ。
だって、脳の学者なんだから。
で、脳のことをよく知ってると、ほとんどのことをよく知ってることになる。
そりゃそうだ。
だって、この世はすべてみんなの脳みそに描かれてるんだから。
だからモシャモシャモギーは忙しい。
立ちながらパソコンをいじくり、立ちながらご飯を食べ、時には大好きな芋けんぴを我慢したりする。
モシャモシャモギーは時の人なのだ。
脳のことに詳しい奴で通ってるから、そこらじゅうからお呼びがかかるのだ。
でも、ときどき、そんなモシャモシャモギーも空しくなることがある。
なんでもかんでも、脳、脳、脳、とやってきて、
ふと、俺の魂、ステテコ村の、にんじん便り! とかなんとか叫びたくなることがある。
もう、脳はいい、脳はいいから、愛をください、
そんなふうに、電信柱におでこをくっつけてぶつぶつ言ってしまうことがある。
モシャモシャモギーも人間だもの。
そのくらいの悩みは抱えている。
ただ、モシャモシャモギーは立ち直りが早い。
そこがまたすごいところだ。
くよくよするとモシャモシャモギーは、最後にこう言って前向きになる。
こう言って、心か脳か、そこらへんは忘れておなかのあたりをすっきりさせるのだ。
頭をかきむしりながら、からっと人懐っこい笑顔を浮かべて、モシャモシャモギーは明るくこう言う。
「だあめだ、くぉりぁ」
今こそニオイのために
2008年04月18日 / その他
いま、気になってしかたないのはニオイのことだ。
ニオイってやつは人に不快感を与えやすいくせに、こちらがいざ何かしようとすると、いつのまにか消えている、そんなやつなのだ。
五感が飲み会を開くとしよう。幹事は視覚にまちがいない。盛り上げ役は聴覚、食いしん坊は味覚、色気を出すのが触覚になるだろう。じゃあ嗅覚はといえば、さんざん空気を読まない発言を連発したかとおもえばいつのまにかいなくなっていて、二次会になってようやく皆が「あれ、あいつどこいった?」と気づく、そんなやつなのだ。
ニオイは本当に空気を読まない。こいつは頼んでもないのに断りもなくむこうからやってきて、こっちがなにか仕返しをしてやるまえに姿を消してしまう。空気を読むなんて考えをそもそも持たないくらいにウザったい、そんなやつなのだ。
しかしこんなふうに何度も「そんなやつなのだ」と言っても、こいつのことを説明するのはかなり難しい。もしくはみんな初めからこいつのことなんて考えちゃいない。
要するに何が言いたいかといえば、映像や文字でニオイを伝えるってことはかなり難しいってことだ。いやむしろ、たいていの人はニオイのことなんて考えちゃいない。
例えば、よくあるタイムスリップもの。江戸時代でも戦国時代でもいいけど、もし私がタイムスリップなんてしたらまずこう思うだろう、
あれ? なんかここ臭わねえ? いや、つーか臭え。うわ、みんな臭え。
って。
昔は臭かった、衛生設備が限られてるんだからあたりまえかもしれないけど、そんな時代は今からすればだいぶ臭い、そんなふうに思えてならないのだ。確証はないけど、なにせニオイのやつのことだから。
だから例えば『戦国自衛隊』がある意味でリアリズムに徹しているのは、戦ってる人って、汗のフルーティーな香りでむんむんだよね、いつの時代も、とそんなふうに思えてしまうからだ。
や、
私はこの映画を見ていないし、自衛隊って基本的に戦わないし、だから何のこっちゃ、という話ではある。
ただ、あんまりウザがるのもニオイにかわいそうなので明日は久々に香水でもつけてやるか、そんなことを雨と酒のすえたニオイに満ちた終電にゆられながらふと考えたのだった。
ニオイってやつは人に不快感を与えやすいくせに、こちらがいざ何かしようとすると、いつのまにか消えている、そんなやつなのだ。
五感が飲み会を開くとしよう。幹事は視覚にまちがいない。盛り上げ役は聴覚、食いしん坊は味覚、色気を出すのが触覚になるだろう。じゃあ嗅覚はといえば、さんざん空気を読まない発言を連発したかとおもえばいつのまにかいなくなっていて、二次会になってようやく皆が「あれ、あいつどこいった?」と気づく、そんなやつなのだ。
ニオイは本当に空気を読まない。こいつは頼んでもないのに断りもなくむこうからやってきて、こっちがなにか仕返しをしてやるまえに姿を消してしまう。空気を読むなんて考えをそもそも持たないくらいにウザったい、そんなやつなのだ。
しかしこんなふうに何度も「そんなやつなのだ」と言っても、こいつのことを説明するのはかなり難しい。もしくはみんな初めからこいつのことなんて考えちゃいない。
要するに何が言いたいかといえば、映像や文字でニオイを伝えるってことはかなり難しいってことだ。いやむしろ、たいていの人はニオイのことなんて考えちゃいない。
例えば、よくあるタイムスリップもの。江戸時代でも戦国時代でもいいけど、もし私がタイムスリップなんてしたらまずこう思うだろう、
あれ? なんかここ臭わねえ? いや、つーか臭え。うわ、みんな臭え。
って。
昔は臭かった、衛生設備が限られてるんだからあたりまえかもしれないけど、そんな時代は今からすればだいぶ臭い、そんなふうに思えてならないのだ。確証はないけど、なにせニオイのやつのことだから。
だから例えば『戦国自衛隊』がある意味でリアリズムに徹しているのは、戦ってる人って、汗のフルーティーな香りでむんむんだよね、いつの時代も、とそんなふうに思えてしまうからだ。
や、
私はこの映画を見ていないし、自衛隊って基本的に戦わないし、だから何のこっちゃ、という話ではある。
ただ、あんまりウザがるのもニオイにかわいそうなので明日は久々に香水でもつけてやるか、そんなことを雨と酒のすえたニオイに満ちた終電にゆられながらふと考えたのだった。
今からでも年賀状を出すために
2008年03月07日 / その他
中学生のころ、3月になって、同じ野球部のHに年賀状を出し忘れていたことに気付き、3ヶ月遅れで書いてみようという気になったことがある。
ただ、普通に出したのではどうにも格好が悪い。
そこであれやこれやと考えて、私は差出人の脇あたりにこんなことを書いておいた。
「この手紙、かたつむりに渡したからちょっと届くの遅れるかもしれないけど、よろしく頼むよ!」
我ながらいいアイディアだ、とほくそえんでいた気がする。
いや実際は、がま君とかえる君だったか、小学校のころ国語の教科書に載っていた話を思い出しただけ、だったとは思うけど。
ただ、私は3ヶ月のタイムラグを最大限に利用しようと考え始めていた。
というか、そう、今思い出したけど、実際、毎日部活で顔を会わせているHにわざわざ書くことなんてなかったのだ。
そういうわけで、手紙の半分くらいに私はこんなことを書き込んだ。
「来年の十大予想!」
こういうこと自体は、今でも普通に書かれているのかもしれない。
とはいえ、十の予想が全て的中するものは、そう多くはないだろう。
そう、私の予想は、見事に全て、完全に、的中していたのだ・・・
といっても、当たって当然だ。
なにせ、1月から3月に実際に起きたことを、仰々しく書き込んでいただけなのだから。
ただ、年賀状をHの家の郵便受けに入れた日の翌日(結局チャリンコで直接家に行ったんだった)、
学校でHが私を見つけると嬉々として駆け寄ってきて私に抱きついて「当たってるよ! 予想が、全部当たってるよ!」などと叫ぶものだから、私は私でしっかりとHの体を抱きかかえたまま「かたつむりには何を?」と尋ねてHが「飴玉!」ともう一度同じ声の高さで叫ぶのを聞いてようやくにんまりとする、
なんてことがあったようななかったようなやっぱりほとんどなかったような気がしている。
とはいえ、きっと私たちはグラウンドの隅のほうでくだらない話をしながら、ぼんやりと鼻くそでもほじくりながら(いや、そこまで退屈じゃなかったけど)上級生の練習をながめたりしていたのだろう、って、いや、やはりあの頃の練習はそこまで楽なものではなかったか。
まあ、Hはその後「見逃しのH」というあだ名をつけられて、中学時代の最終打席でもやはり見逃し三振を喫したわけで、それでも彼一流の情熱で高校でも野球部を続けたものの、部員は三年間で練習試合に一回は出場できることになっていたはずが顧問のうっかりでHはそれさえも逃したわけで、しかししかししかし、一年の浪人生活を経た大学でHは――というのはまた別の話。
ちなみに、私はエラーしたときに顧問から「サッカーのほうがむいてんじゃねえのか!」と言われた言葉が耳に残り、素直に高校からサッカー部に入ったのだった。
と、話がすっかり逸れてしまったけど、
要するに、こういうことだ。
今、年賀状を渡すなら、かたつむりよりポーランド人がいいみたい。
距離によっては4月5月に出してちょうどいいくらいかもしれない、し。
■
フランスはリヨンからの更新。
一緒にヨーロッパを回った友人と別れ、半分一人旅。
半分、というのは、留学中の妹のいる寮に泊まっているから。
意外とというか予想通りというか、暇だ。
ただ、普通に出したのではどうにも格好が悪い。
そこであれやこれやと考えて、私は差出人の脇あたりにこんなことを書いておいた。
「この手紙、かたつむりに渡したからちょっと届くの遅れるかもしれないけど、よろしく頼むよ!」
我ながらいいアイディアだ、とほくそえんでいた気がする。
いや実際は、がま君とかえる君だったか、小学校のころ国語の教科書に載っていた話を思い出しただけ、だったとは思うけど。
ただ、私は3ヶ月のタイムラグを最大限に利用しようと考え始めていた。
というか、そう、今思い出したけど、実際、毎日部活で顔を会わせているHにわざわざ書くことなんてなかったのだ。
そういうわけで、手紙の半分くらいに私はこんなことを書き込んだ。
「来年の十大予想!」
こういうこと自体は、今でも普通に書かれているのかもしれない。
とはいえ、十の予想が全て的中するものは、そう多くはないだろう。
そう、私の予想は、見事に全て、完全に、的中していたのだ・・・
といっても、当たって当然だ。
なにせ、1月から3月に実際に起きたことを、仰々しく書き込んでいただけなのだから。
ただ、年賀状をHの家の郵便受けに入れた日の翌日(結局チャリンコで直接家に行ったんだった)、
学校でHが私を見つけると嬉々として駆け寄ってきて私に抱きついて「当たってるよ! 予想が、全部当たってるよ!」などと叫ぶものだから、私は私でしっかりとHの体を抱きかかえたまま「かたつむりには何を?」と尋ねてHが「飴玉!」ともう一度同じ声の高さで叫ぶのを聞いてようやくにんまりとする、
なんてことがあったようななかったようなやっぱりほとんどなかったような気がしている。
とはいえ、きっと私たちはグラウンドの隅のほうでくだらない話をしながら、ぼんやりと鼻くそでもほじくりながら(いや、そこまで退屈じゃなかったけど)上級生の練習をながめたりしていたのだろう、って、いや、やはりあの頃の練習はそこまで楽なものではなかったか。
まあ、Hはその後「見逃しのH」というあだ名をつけられて、中学時代の最終打席でもやはり見逃し三振を喫したわけで、それでも彼一流の情熱で高校でも野球部を続けたものの、部員は三年間で練習試合に一回は出場できることになっていたはずが顧問のうっかりでHはそれさえも逃したわけで、しかししかししかし、一年の浪人生活を経た大学でHは――というのはまた別の話。
ちなみに、私はエラーしたときに顧問から「サッカーのほうがむいてんじゃねえのか!」と言われた言葉が耳に残り、素直に高校からサッカー部に入ったのだった。
と、話がすっかり逸れてしまったけど、
要するに、こういうことだ。
ポーランドの郵便配達、カタツムリよりも遅いと「実証」
2008年 01月 25日 12:16 JST
[ワルシャワ 24日 ロイター] ポーランドの郵便配達はカタツムリにも劣る遅さであることが「実証」された。IT関連の仕事に従事するMichal Szybalskiさんは、1月3日に速達扱いの手紙を受け取ったが、手紙が投函されたのは昨年12月20日。そこで、配達がどれほど遅いかを検証することにした。
地元紙によると、Szybalskiさんは手紙が届くまでに要した時間を294時間、自宅と差出人との距離を11.1キロと算出、そこから手紙の届く速さが時速0.03775キロだったと割り出した。一方、カタツムリの「歩行速度」を測ったところ、時速約0.048キロだったという。(元記事・http://tinyurl.com/2eltvz)
今、年賀状を渡すなら、かたつむりよりポーランド人がいいみたい。
距離によっては4月5月に出してちょうどいいくらいかもしれない、し。
■
フランスはリヨンからの更新。
一緒にヨーロッパを回った友人と別れ、半分一人旅。
半分、というのは、留学中の妹のいる寮に泊まっているから。
意外とというか予想通りというか、暇だ。




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