映画『イースタン・プロミス』について考える
2008年12月10日/ その他
DVDでようやく映画『イースタン・プロミス』を見た。
『ヒストリー・オブ・バイオレンス』に続く、デヴィッド・クローネンバーグとヴィゴ・モーテンセンのコンビ。本当は映画館で見たかった。
久しぶりに映画を見てじっくり考えてみたので、下にちょろちょろと書いてみる。
(以下、ネタバレも含みます)
それにしても、映画史上最も生々しいのではないかという、公衆浴場での全裸の格闘シーンを始め、全編通して「血」と「肉体」がとにかく印象に残る。ロシアン・マフィアの人身売買や売春、タトゥー、血液採取、父と子の血を介した因縁。一切ピストルが使用されず、肉体は全てナイフで切り刻まれる。裏切り者は首もとをかき切られ、死体は指を切られる。その切断=去勢のイメージは、ひとつはマフィアのボスのダメ息子、キリル(ヴァンサン・カッセル)に憑いてまわる。彼は、父親のように少女を犯すことができず、性的にも組織的にも全く「役に立たない」のだ。
そしてもうひとつ、切断=去勢のイメージは、何より徹底して受身のニコライ(ヴィゴ・モーテンセン)に結実する。終盤、マフィアお抱えの運転手と思われていた彼が潜入捜査官であることが明らかになるが、かといってその態度に変化が表れることは決してない。感情を決して表に出さず、15のときに一度死んだと言ってのけ、マフィアであれ警察であれ、彼は言われるがままに動く。言ってしまえば、筋骨隆々たるにもかかわらず、彼はきわめて女性的な存在なのだ。
マフィアがニコライを一族に向かい入れるために、彼の肉体にタトゥーを入れる場面では、彼は全裸同然の格好になってマフィアのお偉方の前にひざまずく。その姿は実になまめかしく、まるでペニスのように針が彼の肉体を突き、ゆっくりとタトゥーを描きあげていく。だからこそ、キリルとニコライの「男同士の絆」は時に危うく、ホモエロティックな感覚さえ与えることになるのだ。
一方で、徹底して受身の、女性的な態度をとるニコライが「血」とは無関係に最終的に生き残るように、女もまた「血」とは無関係に生きることができる。看護士のアンナ(ナオミ・ワッツ)は赤の他人の赤ん坊を我が子のように可愛がり、最終的にはその子を引き取って、母親とともに3人で暮らしていくことを選択する。
このとき興味深いのは、この映画のいたるところにキリスト教的モチーフがあふれていることだ。題名の「イースタン・プロミス」からして――まずは「英国における東欧組織による人身売買契約」を指すそうだが――、キリストの生誕を暗示する。事実、アンナが引き取る赤ん坊はクリスマスに生まれている。また、アンナは「マリアの母」であり、ニコライは「聖ニコラウス」である。他にもキリスト教的モチーフはいたるところに表れていると思われるが、ただ、ここで重要なのは、むしろ赤ん坊が女の子で、「クリスティーン」と名づけられていることだ。ニコライが徹底的に女性的であることによって生き残り、アンナが女性3人で暮らすことを選択するこの映画において、希望はキリスト=「男の子」ではなく、クリスティーン=「女の子」に託されているのだ。
血と肉体に基づいた男性原理は、マフィアであれ警察であれ、非常に脆く、いずれキリルのようにどん詰まりに陥る。現実をゆるやかに受け入れることのできる女性原理だけが、生き残ることができる。ただ、徹底的に女性的に振舞うニコライとアンナは交じわりそうでいて最後まで決して交わらない。このあたりに『ヒストリー・オブ・バイオレンス』のテーマを継承しているのだろう。結局のところ、一度血の味を知ってしまった肉体は決して後戻りすることができない。もはや血で血を洗うほかない。それがまさに「暴力の歴史」だ。ニコライは「生き残る」ことによって、組織の権力関係から抜け出し、もはや受身では、女性的ではいられなくなってしまうのだ。
もちろん、それでもラストシーン、無言のまま紫煙をくゆらすヴィゴ・モーテンセンはとにかく艶やかで色っぽい。組織の権力関係と男女の権力関係を「ほとんど」同列に並べるこの映画は、徹底的に受身に振舞うニコライのその行く末を、観客の想像に委ねることになるのだ。
『ヒストリー・オブ・バイオレンス』に続く、デヴィッド・クローネンバーグとヴィゴ・モーテンセンのコンビ。本当は映画館で見たかった。
久しぶりに映画を見てじっくり考えてみたので、下にちょろちょろと書いてみる。
(以下、ネタバレも含みます)
それにしても、映画史上最も生々しいのではないかという、公衆浴場での全裸の格闘シーンを始め、全編通して「血」と「肉体」がとにかく印象に残る。ロシアン・マフィアの人身売買や売春、タトゥー、血液採取、父と子の血を介した因縁。一切ピストルが使用されず、肉体は全てナイフで切り刻まれる。裏切り者は首もとをかき切られ、死体は指を切られる。その切断=去勢のイメージは、ひとつはマフィアのボスのダメ息子、キリル(ヴァンサン・カッセル)に憑いてまわる。彼は、父親のように少女を犯すことができず、性的にも組織的にも全く「役に立たない」のだ。
そしてもうひとつ、切断=去勢のイメージは、何より徹底して受身のニコライ(ヴィゴ・モーテンセン)に結実する。終盤、マフィアお抱えの運転手と思われていた彼が潜入捜査官であることが明らかになるが、かといってその態度に変化が表れることは決してない。感情を決して表に出さず、15のときに一度死んだと言ってのけ、マフィアであれ警察であれ、彼は言われるがままに動く。言ってしまえば、筋骨隆々たるにもかかわらず、彼はきわめて女性的な存在なのだ。
マフィアがニコライを一族に向かい入れるために、彼の肉体にタトゥーを入れる場面では、彼は全裸同然の格好になってマフィアのお偉方の前にひざまずく。その姿は実になまめかしく、まるでペニスのように針が彼の肉体を突き、ゆっくりとタトゥーを描きあげていく。だからこそ、キリルとニコライの「男同士の絆」は時に危うく、ホモエロティックな感覚さえ与えることになるのだ。
一方で、徹底して受身の、女性的な態度をとるニコライが「血」とは無関係に最終的に生き残るように、女もまた「血」とは無関係に生きることができる。看護士のアンナ(ナオミ・ワッツ)は赤の他人の赤ん坊を我が子のように可愛がり、最終的にはその子を引き取って、母親とともに3人で暮らしていくことを選択する。
このとき興味深いのは、この映画のいたるところにキリスト教的モチーフがあふれていることだ。題名の「イースタン・プロミス」からして――まずは「英国における東欧組織による人身売買契約」を指すそうだが――、キリストの生誕を暗示する。事実、アンナが引き取る赤ん坊はクリスマスに生まれている。また、アンナは「マリアの母」であり、ニコライは「聖ニコラウス」である。他にもキリスト教的モチーフはいたるところに表れていると思われるが、ただ、ここで重要なのは、むしろ赤ん坊が女の子で、「クリスティーン」と名づけられていることだ。ニコライが徹底的に女性的であることによって生き残り、アンナが女性3人で暮らすことを選択するこの映画において、希望はキリスト=「男の子」ではなく、クリスティーン=「女の子」に託されているのだ。
血と肉体に基づいた男性原理は、マフィアであれ警察であれ、非常に脆く、いずれキリルのようにどん詰まりに陥る。現実をゆるやかに受け入れることのできる女性原理だけが、生き残ることができる。ただ、徹底的に女性的に振舞うニコライとアンナは交じわりそうでいて最後まで決して交わらない。このあたりに『ヒストリー・オブ・バイオレンス』のテーマを継承しているのだろう。結局のところ、一度血の味を知ってしまった肉体は決して後戻りすることができない。もはや血で血を洗うほかない。それがまさに「暴力の歴史」だ。ニコライは「生き残る」ことによって、組織の権力関係から抜け出し、もはや受身では、女性的ではいられなくなってしまうのだ。
もちろん、それでもラストシーン、無言のまま紫煙をくゆらすヴィゴ・モーテンセンはとにかく艶やかで色っぽい。組織の権力関係と男女の権力関係を「ほとんど」同列に並べるこの映画は、徹底的に受身に振舞うニコライのその行く末を、観客の想像に委ねることになるのだ。
Posted by merio at 01:22│Comments(0)│TrackBack(0)
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